昨年(2006年)辺りから上野寛永寺、そして谷中霊園のあちこちで工事が見られるようになりました。昭和 32年(1957)に決定された後、棚上げされていた霊園の公園化計画が、都営青山霊園に続き(2004)、本格的に始まるようです。その辺の事情と経過は『谷中 根津 千駄木』の既刊、86号「特集/谷中墓地桜並木の石碑と霊園再生計画(発行: 2007/3発行)で、詳細に書かれていますので興味があればぜひ読んで下さい。
で、春先頃から霊園には、以下の内容が書かれた"白い立て札"があちこちに立てられました。
東京都からのお知らせ
墓地の整理のために無縁墳墓等について改葬することとなりましたので、当該墓地使用者等、死亡者の縁故者および無縁墳墓等に関する権利を有する方は、本立札に掲載された日付の翌日から一年以内に下記連絡先にお申し出ください。
なお、期日までにお申し出がない場合は、無縁仏として改葬することになりますのでご承知ください。
平成 19年 3月 1日
1 墓地等所在地 東京都台東区谷中 ○-○-○
1 墓地等の名称 東京都谷中霊園
1 死亡者の氏名及び本籍 各死亡者の本籍は不詳
□□□□、□□□□、□□□□、□□□□、
1 改葬を行おうとする者 東京都新宿区西新宿 2丁目 8番 1号
東京都知事 石原慎太郎
1 連絡先 東京都谷中霊園管理所
電話 03-○○○-○○○○
縁故者が不明の墓地に立てられ、1年以内に縁故者が現れないときは、今後つくられる無縁墓地へ移動し、整理後、青山霊園同様に永らく行っていなかった墓所の新規貸し付けが行われるそうです。
立て札は、お彼岸〜お花見を経てずいぶんと減りましたが、まだ立て札が残されている墓地には随分と立派な墓から、野仏のように朽ちたものもあります。



明治政府が都営谷中霊園を開いたのは明治 7年(1874)。昭和 37年(1962)以降、新規貸し付けは行われず、一方で墓所返還も積極的に進まぬまま現在に至りました。現在、立て札が残る多くの墓地は明治〜昭和初期の方のようでした。
関東大震災、第二次世界大戦を経て百年前後、その間に人はおよそ三代〜四代継がれます。少子化でなくても、薄くなってしまった血と姓を途絶えさせるには充分な時間なのかも知れません。追憶する縁故者がいない現在、第三者に知らしめるべき生きていた"跡"さえも消えてしまうのも仕方のないことなのかも知れません。
関連リンク:
■『谷中 根津 千駄木』(谷根千工房)
・86号「特集/谷中墓地桜並木の石碑と霊園再生計画」
http://www.yanesen.net/backnumber/086/
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この墓地も立て札が立てられたままのひとつです。以前、「根津遊廓が、あった頃」について書きましたが、根津遊廓廃止後、そのほとんどが洲崎遊廓へ移ったそうですが、この「北川徳蔵・國 墓」に眠る人物もそのひとりだったのかも知れません。・・・

墓前には"深川洲崎"、"新喜多川楼"と彫られており、花挿しには"新喜多川雇人中"、"新喜多川娼妓中"とあります。右手に無造作に立てかけられているのは碑です。遊廓の栄華が偲ばれます。
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生前の名が消えてしまう前に、白い立て札が立つ墓地に眠る一族に、思いを馳せながら歩くのも中々興味深いです。
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