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根津遊廓が、あった頃

「文京つつじまつり」で賑わう、不忍通りから新坂(S坂)への門前通りです。
門前通り


 かつて栄えた遊廓の賑わいを、貧しい想像力で思い描いてみるのですが・・・
門前通り


 現在の門前通りではなく、おそらく現在の不忍通りとほぼ並行に走る(つまり斜めに道路に面している根津神社の鳥居からまっすぐと根津駅付近へ延びるような、)と、通りがあったのでしょうか...。この界隈には江戸と明治の一時期、遊廓が建ち並び、大層賑わったそうです。
杉本染物舗」の横に次のような解説板が設置されています。


根津遊廓の跡地

 根津八重垣町(昔は門前町と言った)から根津神社まで遊廓があった。そして昔根津は不寝と書かれていたようだ。小石川本郷と谷中の中間の谷間で、天保十有余年この根津に娼妓[しょうぎ]がいたことを記している。更に当時の江戸市中の風紀から見て一大改革が持たれ、俗に言う水野越前守の禁粛政治で根津遊廓も禁止した。明治維新となるやこの根津の遊廓復帰は声高く叫ばれ公然と開業された。ところが東大、一高が本郷向丘に開設されるに及び、再びこの根津遊廓廃止論は大きく起こった。そして遂に明治 20年(1887)12月限りで廃止。その殆どは洲崎に移り、また一部は吉原に移った。明治 15年(1882)当局の調査によると吉原(娼妓 1,019人)、根津(娼妓 688人)、品川(娼妓 588人)と記され、その盛況ぶりが偲ばれる。

 昭和 62年 4月
 文京歴史研究会  荒川忠親  浪越徳治郎
          小林光二  田中行成
          松浦信夫  石坂岩雄
          田代喜一郎 森田一郎
          高田栄一  菊見岩雄
       (株)柏崎土建  中尾泰一
          里見博康  北山茂
          小平千里  杉本順子


 地域雑誌『谷中 根津 千駄木』とともに、この地域の歴史を語る上で欠かせない貴重な史料『ふるさと千駄木』(著:野口福治)には、明治の根津遊廓の風景がもう少し詳細に書かれていました。

 明治 3年(1870)3月には藍染川の支流、弥生坂下の流れに、立派な手すり付きの橋を新調し、あいぞめ橋と名付け、遊廓の表門とした。
 なお、八重垣通りの中央に桜の木を植え、その樹間に雪洞[ぼんぼり]を立て、灯りを入れて、新吉原にならった。その規模と繁栄は急速に拡大し、明治 10年(1872)には八幡楼をはじめ、貸座敷の数 90軒、娼妓 574人、内外の芸者 33人、他に引手茶屋 22軒、飲食店 17軒となった。


 このつつじまつりの風景より多くの店と客で夜中賑わっていたようです。この根津遊廓があった頃を偲ばせる(見られる方の想像力頼みですが...)遺構が、路地裏に辛うじて残っていました。

 瓦は替えられていますが造りは、かつての「北見楼」という小見世があった当時の、棟の一部そのままです。
北見楼・遺構


谷根千路地事典』(刊:谷根千工房)に詳細に書かれていますが、この場所(北見楼・遺構)は家主を、牛鍋屋〜医者〜小料理屋「なぎさ」〜朝日新聞八重垣販売所(先代)〜現家主と代わる約 130年間(震災や戦争を経て)に増改築を繰り返しながらも、この棟の一部だけは遺され続け今日に至るそうです。


 勉強&想像力不足ゆえ、遊廓を追想するには至りませんが、この地域で解体〜新築ばかりの光景を多く見ていましたので、(一部とはいえ)民間の方々の意志で遺され続ける遺構があることは、素晴らしいことだ、と感じました。

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このページは、やまだが2007年4月22日 18:10に書いたブログ記事です。

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