ベルツの庭石

 こちらも「医学部附属病院看護職員宿舎」に雑然と置かれていた「ベルツの庭石」ですが、「相良知安先生記念碑」とともに「医学部附属病院入院棟A」車寄せへ続く道路脇植え込みに整備・造成されました。
ベルツの庭石


 事実は定かでないのですが「ベルツの庭石」とは、エルヴィン・ベルツ博士(1849-1913)の"住居に造られていた"と伝えられる庭石です。(参照:『東京大学本郷キャンパス案内』著: 木下 直之 / 大場 秀章 / 岸田 省吾)


ベルツの庭石

 この庭石は不忍池を見下ろす高台に据えられたものである。庭園は明治 9年(1876)に来日したドイツ人教師ベルツ博士の住む教師館に接しており、博士も庭仕事を好んだといわれる。
 庭園のあった御殿は日本語で教育を行う医学別科の教場として使用された。医学別科の廃止に伴い、明治 26年(1893)に御殿は現在の山上会館の地に移築され、残された庭石は、博士に因み「ベルツの庭石」と呼ばれるようになった。庭石はその後長く院内の崖地に放置されていたが、平成 18年(2006)9月、中央診療棟 2の竣工に際しこの地に移設された。

 平成 19年 3月     東京大学医学部・医学部附属病院


ベルツの庭石


 庭石の向こうには「相良知安先生記念碑」が見えます。

相良知安先生記念碑とベルツの庭石


 相良知安の要請により日本政府は、ドイツ人医学教師を招聘します(当時、ドイツは戦争中のために医師の来日が遅れます。この間、臨時に教職を依頼したのが、相良知安の恩師であったボードウィン博士)。約 2年後、陸軍軍医であったミュレル(少佐)とホフマン(少尉)が来日し(1871)、3年間教鞭を執り帰国(1875)します。一方、相良知安は同時期に冤罪で逮捕、無実が証明されるまで一年以上投獄されました。釈放後、再び医学校長(1872)の任に就き、翌年には初代・文部省医務局長を兼任しますが、約一年で退職します。
 ミュレル、ホフマン帰国後、エルヴィン・ベルツが来日(1976)した時には相良知安は既に学校にはいませんでした。しかし遡ると、ミュレル、ホフマンの後任を要請したのは相良知安であるかも知れません(関連書を読んでいませんので想像です)。ベルツは 29年間日本に住み、日本医学の発展に尽力しました。遅れて来日するスクリバと共に、軍人であったミュレル、ホフマンよりもベルツ、スクリバは、相良知安(というよりに日本医学)が最も欲した人材だったのかも知れません。
(ミュレル像、ベルツ&スクリバ像、そして移動した相良知安記念碑。それぞれの設置場所は、現在の評価を暗示している気がします。)


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東京大学本郷キャンパス案内
4130033220
木下 直之 大場 秀章 岸田 省吾


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このページは、やまだが2007年4月 4日 22:33に書いたブログ記事です。

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