相良知安先生記念碑
東大敷地内で最も不忍池に近い、「医学部附属病院看護職員宿舎」の脇、鬱蒼とした茂みの奥に設置されていた相良知安先生記念碑が、「医学部附属病院入院棟A」傍明るく陽のあたる休憩所に移設されました。

竹垣がちょっと邪魔ですが、それでも以前よりずっとマシですね。相良知安先生、これからは日なたで日本医学の行く先を眺めてくださいな。
相良知安先生記念碑
明治維新後、わが国の医学教育はオランダ医学からイギリス医学へ転換する方針であった。しかしながら明治 2年(1869)、医学取調御用掛に任ぜられた佐賀藩医の相良知安 の強い進言により、当時隆盛を示していたドイツ医学の採用が決定した。これにより明治 4年(1871)、プロシアの軍医ミュレルとホフマンが招聘された。相良は明治 5年に医学校校長に任ぜられ、さらに文部省医務局長を兼任した。現在の上野公園一帯に医学校と大学病院の建設を計画したが容れられず、本郷旧加賀藩邸を代替地として請願し許された。相良の尽力により東京医学校は明治 9年に下谷和泉橋通りから本郷に移転し、明治 10年(1872)に東京大学医学部となった。
本記念碑は昭和 10年(1935)に入澤達吉名誉教授の撰文によって池之端門上の高台に建てられた。近年は樹木と建物に隠れその存在は忘れられていたが、わが国の近代医学史を記す貴重な資料であることに鑑みこの地に移設した。
平成 19年 3月 東京大学医学部・医学部附属病院

相良知安先生記念碑
樞密顧問官正二位勲一等功三級子爵 石黒忠悳 題額
明治維新ノ初政府将ニ和蘭醫學ニ代フルニ英吉利醫學ヲ以テシ醫學教育ノ面目ヲ一新セントス時ニ世上頻二獨逸醫學ノ宇内ニ傑出セルヲ説クモノアリ又来朝中一外人モ亦頗ル之ヲ賛スルアリ茲ニ於テ廟議断然獨逸醫學ヲ採用スルコトニ決シ普魯西公使ニ嘱シ醫學教師ヲ聘セントス適普佛戦争起ルニ會シ其事行ハンス明治四年ニ及ヒテ始メテドクトルミユルレル來朝スルアリ遂ニ其提案ニ據リ本邦醫學教育方針ノ確立ヲ見ルニ至レルカ其ノ制度ハ一ニ獨逸ニ則リタルモノナリ此間ニアリテ斡旋盡力幾多ノ反對論ヲ説服シテ政府ノ規畫ヲ達成セシメタルモノヲ相良先生ト為ス 先生ハ實ニ獨逸醫學ヲ輸入シタル恩人ナリ 先生名ハ知安弘庵ト號ス佐賀藩醫ナリ明治二年一月召サレテ醫學校御用掛ヲ命セラレ醫政ニ鞅掌ス尋テ大學少丞ニ任セラル五年十月第一大學區醫學校學長ニ遷リ翌年文部省築造局長ニ任シ醫務局長ヲ兼ヌ先生ノ醫務局長タルヤ建議シテ上野一帶ノ地ニ醫學校及大學病院ヲ新築シ長橋ヲ不忍池ニ架シ以テ交逓ニ便ナラシメントセリ而カモ一部の反對ニ遭ウテ果ス能ハス先生乃チ政府ニ逼リ其代償トシテ本郷ノ舊加賀藩邸ヲ得テ以テ醫學校建設地ニ充テンコトヲ請ヒ之ヲ許サル九年ニ至リ醫學校及病院ノ新營始メテ成ル是レ今日ノ帝國大學所在ノ地タリ先生ノ文部ニ官スル部下ノ累スル所トナリテ奇禍ヲ蒙レルコトアリ冤雪カレテ出仕スルコト兩度ニ及ヘルモ皆久シカラスシテ之ヲ罷メ遂ニ韜晦シテ復タ出テス三十三年政府其前功ヲ録シ勲五等ニ叙シ双光旭日章ヲ賜フ三十九年六月十四日病ンテ歿ス享年七十一特旨ヲ以テ正五位ニ叙セラル先生人ト為リ剛毅果敢甚タ才幹アリ而カモ狷介孤峭極メテ自信ニ篤シ是ヲ以テ世ト相容レス轗軻其身ヲ終フ深ク惜ムヘキナリ先生ノ歿ヲ距ル茲ニ二十有餘年後進ノ徒先生ノ本邦醫學制度創設ノ際ニ於ケル功績ノ湮滅ニ歸センコトヲ慮リ相謀リ貲ヲ醵シ石ヲ帝國大學ノ庭中ニ樹テ之を表彰セントシ文ヲ予ニ徴ス予不攵敢テ當ラスト雖モ爰ニ先生ノ事歴ヲ畧叙シテ以テ後昆ニ 言念(誥)クル爾カ云フ
昭和十年三月
東京帝國大學名譽教授 正三位勲一等醫學博士 入澤達吉 撰
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相良知安先生記念碑にも書きましたが、題額の石黒忠悳は相良知安の元で東大病院(東京帝国大学医学部&附属病院)の設立に尽力しました。東大病院建設予定地としてボードウィン(ボードワン)博士を上野公園へ案内し結果、紆余曲折を経て上野恩寵公園が造られることになります。また石黒忠悳は後に軍医療の先駆として軍医を務め、森鴎外の上司としても知られます。
碑文を撰した入澤達吉は東京帝大の医学部長を経て、大正天皇の侍医頭を勤めた方です。
