何処へ向かおう?
池之端門近く、小高い医学部附属病院看護職員宿舎脇の茂みの中にひっそりと「相良知安先生記念碑」が建っています。

しかし明治新政府は、薩摩藩を後ろ盾に戊辰の役に従事した英国医師、ウイリアム・ウィリス(1837 - 1894)の活躍もあり、明治元年(1868)には既に英国医学の導入を決定していました。ところが、オランダ人医学者の反発や資金面(給与や設備費)から頓挫してしまいます。
明治2年(1869)蘭方医との調整役も兼ねて、相良は「医学校取調所御用掛」の役職に就きます。この地位を生かし、政府要人(旧土佐藩主・山内容堂ら)を向こうにまわしてドイツ医学の採用を激しく説きました。結果、政府は相良知安の主張を聞き入れ、ドイツ医学採用が決定されたのです。
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この後、相良知安は直ぐにドイツ政府へドイツ医師の派遣を要請しますが、ドイツ(プロシア)はフランスとの戦争で、ドイツ医師の来日が 3年近く遅れることになります。その間に医学校の学生らが騒ぎ出したため、相良知安の下で仕事をしていた石黒忠悳(後に軍医)は、大阪に再来日し教鞭をふるっていたボードウィン博士を頼り、医学校での講義を依頼します。ボードウィン(ボードワン)博士も、英国医師を退職させドイツ医学を採用しておきながら、その"繋ぎ"として講義を依頼してくる、かつての教え子の対応は気分のいいものではなかった、と思われます。しかしながら結局、明治 3年(1870)彼が帰国する直前の 2ヶ月を、医学校(東校)に於いて講義することを承諾しました。
また一方では、遡ること明治元年(1868)に横浜にあった軍事病院を合併し、「医学校兼病院」となっていた医学校(東校)は、それまであった下谷藤堂邸が手狭になり、荒れ果てたままの上野寛永寺(予定地)に、総合的な医学校&病院を建設し移転する計画が進行していました。(この時期にボードウィン博士は、石黒忠悳に「上野の山」を案内されることになる訳です。)
相良知安による、ドイツ医学採用への方向転換は明治政府内において反感を生んだのも事実で、相良知安は明治 3年(1870)9月に、冤罪から逮捕され、14ヶ月間拘留されてしまいます。投獄され自由を奪われた「時間」がその後の彼に,どのような陰を落としたのか慮る由もありません。
明治 5年(1872)無実が証明され放免されると、2月には文部省・医務課に登用、10月には第一大学医学校長(現・東大医学部)に就任します。翌年には初代・文部省医務局長を兼任しますが、1年後には辞任。自分の向かうべき道を見出せなかったのでしょうか。...その後、文部省に籍を置きますが、数年後に退きました。
明治 10年(1877)、入澤達吉(1865-1938、東京帝大医学部長・のち大正天皇侍医頭)撰による、この顕彰碑が建てられました。
相良はあっさりと地位を捨て官界から退き、ひっそりと暮らしていたようですが、生活は困窮していたようです。
明治33年(1900)、石黒忠悳の推奨により勲五等授与しましたが、相良は礼服を持たず、授与式には出席しませんでした。さらに晩年は遊女相手に占い師をして生計を立てていた、とも言われています。
明治39年(1906)、インフルエンザにて 71年の生涯をひっそりと閉じました。死去後、天皇家から祭祀料がその廃屋に届けられ、そのとき初めて近所の住人達は、孤独な占い師の、もう一つの素顔を知ったといいます。
英国かドイツか。上野か本郷か。若き日には日本医学の行く先を示し、年老いては遊女の行く先を占うも、自らのゆくべき道は、冤罪による投獄を境に、生涯見失ったままだったのかも知れません。...
■ 東京大学医学部附属病院
>> 病院だより
>> PDF資料: No.47('04/11/15)容量: 2.00MB
・相良知安先生の活躍について
白い激流―明治の医官・相良知安の生涯
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日本医家伝
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