朱舜水先生終焉之地碑

 農正門を入り警備員室後方に、朱舜水記念碑があります。朱舜水[しゅしゅんすい](1600 - 1682)は明の儒学者で、明朝の滅亡後、日本に亡命してきました。1665年(寛文5),水戸藩第二代藩主徳川光圀に招かれ,水戸藩江戸屋敷にて生活しながら広範な知識を藩内に教え、伝えました。『大日本史』の編纂や後の「水戸学」へも多大な影響を与えた、と言われています。
朱舜水先生終焉之地碑


□ 東京都指定旧跡
所在地: 文京区弥生 1-1-1
指定: 昭和 12年 9月 22日


朱舜水[しゅしゅんすい]記念碑

 日本に亡命した中国明末の遺臣。明の万歴 28年(1600)10月 12日浙江[せっこう]餘姚[よよう]に生まれた。名は之瑜[しゆ]、字は魯 王與[ろよ]、号は舜水[しゅんすい]朱永祐[しゅえいゆう]張肯堂[ちょうこうどう]呉鍾巒[ごしょうらん]について学び特に詩書に通じていた。舜水は祖国明朝の復興運動に挺身したが果たさず、万治 2年(1659)七度目の長崎来訪にあたり、安東省安[あんどうせいあん]の懇請により日本に留まり、寛文 5年(1665)小宅生順[おやけせいじゅん]の推挙で水戸藩に招かれて東上した。同8年(1668)光圀の別荘(現在の東京大学農学部)に入り、以後の生涯をこの地に過ごした。彼の学風は、陽明学と朱子学との中間に位置する実学(実行の学)で、空論を避け、道理を重んじ、水戸光圀や安積澹泊[あさかたんぱく]、林鳳岡[ほうこう]、木下順庵らに大きな影響を与えた。天和 2年(1682)4月 17日 83歳で没し、常陸太田の瑞竜山に葬られた。死後『朱舜水先生文集』28巻が徳川光圀輯・徳川綱条[つなえだ]校として刊行された。この記念碑は日本渡来 250年祭にあたり朱舜水記念会が建てたものである。

 平成 2年 12月 27日 再建     東京都教育委員会

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このページは、やまだが2006年9月23日 16:18に書いたブログ記事です。

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