向陵碑

 昭和 10年(1935)この地(現・東京大学弥生地区)にあった旧制第一高等学校が駒場(現・東京大学駒場キャンパス)へ移転する際に建てられた石碑です。農正門より入り右手、弥生講堂の奥に言問通りを背にして建てられています。
向陵碑


 旧制第一高等学校は、それまであった一ツ橋から明治 22年(1889)、向ヶ丘弥生へ移転し、駒場へ移る 46年のうちに通称「一高」とも「向陵」(陵は大きな岡を表し、すなわち"向ヶ丘"の漢学表現)とも呼ばれていました。
その校風や歴史は旧制第一高等学校ホームページに詳しいですが、旧制第一高等学校とは現在でいえば附属高校に近いのでしょうか。昭和 25年(
1950)にその歴史を閉じ、東京大学 1~2年の教養学部がそれに変わってあるようです。


■ 旧制第一高等学校 ホームページ
http://www6.ocn.ne.jp/~kohryoh/index.html

 向陵碑の裏側には漢文で刻まれた碑文です。
向陵碑の裏側

解説プレートには出来る限り判りやすく仮名がふられています。

向陵碑

 我が第一高等学校は、初め東京英語学校と称し、神田一ツ橋に在り、明治 8年(1875)に創立せらる。同 10年(1877)、大学予備門と称し、19年(1886)、第一高等中学校と称し、22年(1889)、本郷向陵に遷る。23年(1890)、今の名(第一高等学校)に改めて、法学博士木下廣次先生校長に任ぜらる。此の時に当たり、欧米の綺靡[きび]綺靡の風、上下に弥漫[びまん]し、殆ど将に国の礎を危うくせんとす。先生これを憂へ、四大綱領を掲げ、自治領の規制を制定し、以て天下に倡道[しょうどう]す。是に於いて、全校学生、頓に面目を改め、奮励踴躍[へんれいようやく]し、人人国士を以て自ら任じ、向陵健児の名は四海を聳動[しょうどう]せり。爾来四十六年、時として、汚隆[をりゅう]無くんばあらずと[いへど]も、向陵精神は一貫して令を[あらた]めざるなり。浮説[ふせつ]世を惑はし、人心動揺し、その禍は輩国士の遺風に迫らんとする者。[あに]寒心[かんしん]恐懼[きょうく]せざるべけんや。数年前、当局に我が高校と駒場農科大学と、その地を相ひ[]へんとするの議有りて、[すで]に緒に就く。今[ここ]に八月、我が輩将に向陵と永訣せんとす。嗟夫[ああ]向陵よ、汝の精神は[とこし]へに我が高校とともに相ひ終へん。始め[もと]より地の東西を以てその節を変ぜず。然れども我が高校と汝とは、相ひ親しむこと四十余年、その去るに臨みて決然たるに忍びず。一片の貞石を留め、以て遺蹟を表せんとし、[すなわ]ちこれに[]くるに辞を以てす。曰わく我が石は志を磨くべく、奪ふべからず。彼の[げう]たる者は[きう][なん]ぞ其れ[たふ]るることあらんや。

 昭和 10年 2月 1日     第一高等学校寄宿寮
 前第一高等学校教授 安井小太郎 撰
 前第一高等学校教授 菅乕雄 書


うーん、それでも私には難しい!しかし書き写しているうちに、非常に高い"志"というか"気概"というか矜持の持ちようについて強く考えさせられました。

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このページは、やまだが2006年9月18日 13:21に書いたブログ記事です。

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