平成 15年(2003)12月に、ホール、研究施設を備えた武田先端知ビルが竣工しました。

建てられた場所は弥生地区の西側、

■ 財団法人 武田計測先端知財団
http://www.takeda-foundation.jp/index.html
平成 13年(2001)武田先端知ビル建設に先立ち、行われた発掘調査でいくつもの発見がありました。
出土品以外の遺跡は全て埋め戻されてしまいましたが、その成果は武田先端知ビル外柱に設置された写真付き解説プレート(方形周溝墓と発掘された弥生土器。ガラス玉と官玉の分析結果)で知ることが出来ます。

また、解説板とともに車道出入り口には、石タイルで「方形周溝墓」で再現され、おおよその位置を知ることも出来ます。

昭和 49年(1972)小学生が偶然に土器の一部を発見したことをきっかけに行われた、発掘調査時に見つかった方形周溝墓は同じ武田先端知ビルの 100メートルと離れていない西端でしたので、おそらく同じ集落地で、この遺跡位置から東側へは、下る谷になっていたらしいので、この場所が「弥生式土器」第一発見場所に一番近い遺跡だと思われますが、現在となっては、それを特定し、証明することは難しいことです。しかし、この地「向ヶ丘弥生」一帯からは、どこを掘り起こしても土器が発見されることから縄文〜弥生時代に住みやすい集落地であったことが伺えます。浅野地区を東へ下れば、根津の谷と不忍池。古代、忍岡と向ヶ丘の台地に囲まれた不忍池は海の入り江だったといいます。

椎木が残る浅野地区の西端に「弥生二丁目遺跡」の解説プレートが設置されています。

弥生二丁目遺跡
国指定史跡: 昭和 51年 6月 7日指定
昭和 50年(1975)、校舎の増築に先立ち校舎の増築に先立ち考古学研究室が発掘を行ったところ、大地の緑に沿って弥生時代の集落を囲む環濠(空堀)の一部が発見され、壕の中からは食料にされたカキなど貝塚の層と弥生土器が出土しました。現在は大学の建物によって大きく損なわれていますが、この台地上に広く弥生時代の遺跡が存在したことになります。
ところで、明治 17年(1884)、考古学に興味を持つ東大の学生たちが、この付近で大昔の土器を採集しましたが、後にその種の土器は「縄文土器」と区別されることが分かり、最初の発見地の町名をとって「弥生土器」と呼ばれるようになりました。「弥生時代」の名称の由来です。土器が発見された正確な地点(当時、向ヶ丘貝塚と呼ばれた)について意見は分かれますが、この場所を含む集落遺跡に関連するに違いありません、その学史的、学術的重要性のため、増築計画は変更され、国の史跡として保存されることになりました。
明治 17年頃、このあたりは人家もない寂しい場所であったそうです。この地点にかろうじて残された段丘地形と雑木林が、わずかに当時の風景を偲ばせます。

【追記: 2006/10/19】
後日、東京大学埋蔵文化財調査室の原祐一さんからメールを頂きました。
その後の文書調査で『弥生二丁目遺跡周辺は、"人家もない寂しい場所"ではなく、"官庁管理地のため弥生舎を含めた庭園で、一般人は立ち入りができない場所"であったろう、と考えられます。』とのことでした。そのことから『"寂しい場所"とは、現在の農学部部分(当時、東京府の病院敷地西側)を指し、弥生式土器の発見場所もその辺りに限定できる、と考えられます。』とのことでした。
また「弥生二丁目遺跡」について、このようにも説明下さいました。
現在、弥生二丁目遺跡は笹薮になっています。明治15年の射的場の図面、現在の地震研にあった脚気病院の図面、戦後の浅野地区の図面に笹藪が描かれています。木だけでなく笹藪も明治時代の風景を偲ばせるものだと思います。
■ 東京大学埋蔵文化財調査室
http://www.aru.u-tokyo.ac.jp/
・本郷キャンパス・浅野地区に遺跡解説板を設置(2006.3.30)
http://www.aru.u-tokyo.ac.jp/asano_panel.htm
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