広く知られているとおり、弥生式土器発見にともない名付けられた「弥生土器」、「弥生時代」の名称は、ここ文京区弥生の地名に由来します。東大浅野地区の一角、弥生坂沿には地元有志の方々によって建てられた碑があります。

建碑のことば
弥生式土器は、ここ向ヶ丘弥生町(現・弥生 2丁目)内の数カ所から初めて出土発見され、町名を冠して「弥生式」と名付けられました。
遠いむかし、人々はこの辺りに住みつき、日本文化の曙を告げたのです。弥生式土器、向ヶ丘遺跡の発見によって、弥生時代という重要な文化期の存在が知られました。私たちは、こうした歴史の壮大で匂やかなロマンを憶いふるさとわが町の誇りを語り継ぎ、出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この記念碑を建てました。
昭和 39年(1964)行政措置により、この町は弥生 2丁目と変わりましたが、町会名は歴史的な名を継承しております。
昭和 61年(1986)夏 7月吉日 向ヶ丘弥生町会有志
高橋石材 刻
「・・・ゆかりの地」となっているのは、第一発見場所がハッキリしていないためです。それは、当初この地に多く出土していた縄文土器の一種とされていて、弥生土器として命名、区別されたことが遅かったことや、この地域の開発が急速に進んだために急速に変化し、発掘場所のスケッチと弥生土器発見時の資料公表時との風景が大きく変わってしまったことなどが挙げられています。
同じく弥生坂の向かい側の舗道(暗闇坂と弥生坂の交差点近く)には、弥生土器の発見場所にまつわる、このような解説版が建てられています。

弥生式土器の発見地
都指定旧跡: 弥生式土器名称由来地
国指定史跡: 弥生 2丁目遺跡
・弥生式土器の発見
明治 17年(1884)、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂金召 三 の三人は根津の谷に面した貝塚から赤焼の壺を発見した。これが後に縄文式土器とは異なるものと認められ、町名をとり「弥生式土器」と命名された。この遺跡は、考古学上重要な遺跡で、「向ヶ丘遺跡」といわれる。
・向ヶ丘遺跡はどこか
この遺跡の位置はその後、都市化が進む中ではっきりとしなくなり、謎とされてきた。推定地としては次の 3箇所が指摘されている。
1)東京大学農学部の東外側
2)東京大学農学部と工学部の境(現在地付近)
3)根津小学校の校庭裏の崖上・弥生 2丁目遺跡の発掘(4)
昭和 49年春、根津小学校の児童が、東大構内旧浅野地区の工学部九号館わきで、倒れた木の根本から土器片や貝殻を採集した。これがきっかけで発掘調査が行われた。そして明治 17年発見の弥生式土器に極めて類似する土器が出土した。(弥生 2丁目遺跡として国の史跡に指定)・弥生式土器の発見地
根津の街を眼下に見、不忍を望むとされる、最初の弥生式土器の発見地(幻の向ヶ丘貝塚)の位置は、従来に推定された三地点が、崖際から離れていたり(1、2)、不忍池が見えなかったり(1,3)で適当でない、といわれる。
弥生二丁目遺跡(4)は文献上からも出土品からも、最初の弥生式土器の発見地に極めて近接する、という考え方が有力である。尚、この遺跡は調査後埋め戻された。
昭和 58年 2月 文京区教育委員会
と、いったわけで弥生土器発見の場所は未確定ながらも、浅野地区一帯の台地を「弥生二丁目遺跡」として、国の史跡に指定されています。
■ 東京大学総合研究博物館
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東アジアの形態世界
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>> 5 壷形土器(重文指定)
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1994collection1/tenji_sekki_05.html
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