谷根千ウロウロ: Once Upon a Time in 弥生(1)由来

« 大祓・茅の輪くぐり | メイン | Once Upon a Time in 弥生(2)土器 »

歴史,向丘/弥生,東大散歩, 】

Once Upon a Time in 弥生(1)由来

 東京大学・浅野地区を歩きながら弥生を振り返ってみました。弥生は、明治以降「向ヶ丘弥生」と地名が付けられました。
現在の弥生は、1丁目が東京大学弥生地区、2丁目が東京大学浅野地区と、一般住宅地ということになります。大雑把な言い方をすると、不忍通りと本郷通りの間、弥生坂(言問い通り)を中央に挟んで弥生は南北に広がっています。東京大学浅野地区を含む、弥生 1〜2丁目付近は、江戸時代まで徳川御三家のひとつ、水戸家駒込邸がありました。現在の不忍通りを挟んで東の上野山周辺の台地一体は忍岡(しのぶがおか)と呼ばれていましたので、根津の谷(不忍通り)を挟んだ、駒込側の台地一帯は、向ヶ丘と呼ばれていたようです。

旧 向ヶ丘弥生町(昭和 40年までの町名)
 江戸時代は、御三家・水戸藩の中屋敷であった。明治 2年(1869)新政府に収用され、同 5年(1872)町屋ができて、向ヶ丘弥生町と名付けた。
 町名のいわれは、文政 11年(1828)3月 10日、第九代水戸家藩主・徳川斉昭が屋敷内に建てた歌碑からとられた。
『ことし文政十余り一とせといふ年のやよいの十日 さきみだるさくらがもとにかくはかきつくこそ』
と述べ、次の歌が刻まれていた。

 名にしおふ 春に 向ふが岡 なれば
  世に たぐひなき はなの影 かな

 明治 17年(1884)、ここの貝塚から発見された土器は、町名をとり弥生式土器と命名された。
     文京区

 この「向ヶ丘弥生町」の由来になった、徳川斉昭(水戸烈公)の歌碑が、東京大学浅野地区の一隅(工学部10号館西)に設置されています。
向ヶ丘碑

碑に刻まれた書は、現在では判読しがたいのですが、「向ヶ丘弥生」の由来は、この歌碑より生まれたわけです。

-----

弥生町
弥生町
美しいひゞき
やさしい呼び名
わたしは このなつかしい町の名と
別れることはできない
ぜったいにできない

サトウハチロー『弥生町に寄せて』より

先に引用した、弥生の由来で「旧 向ヶ丘弥生町(昭和 40年までの町名)」と書かれていますが、実はこの時の町名改正で文京区議会は、「向ヶ丘弥生町」は「根津 1丁目」になることに、いったんは決まってしまいました。しかし、弥生の住民たちはこの地と名称に誇りと愛着を持っていましたから、町を挙げて反対運動を起こし、団籐重光(東京大学名誉教授、元最高裁判所判事)をはじめ、鹿野琢見(弁護士)、サトウハチロー(詩人)ら学者、文化人を旗頭に、地元住民が町ぐるみで昭和 40年(1965)、行政訴訟を起こすまでになりました。結局、昭和 41年文京区と住民は和解し、訴訟は取り下げられ、弥生(2丁目)の地名は残されました。

サトウハチローの翌年の年賀状の住所の後ろに、こう印刷されていたそうです。
『(略)〜これがうれしき町名番地』


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.bakyung.com/blog/mt-tb.cgi/686

コメント

初めてコメントさせて頂きます。ん~~勉強になりました。有難うございます。また拝見させて頂きます。

>GANさん、はじめまして。
谷根千と呼ばれる地域でも、町としての歴史は浅い(明治以降)のですが、なかなか興味深い場所です。機会があれば、散歩してみてください。

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)