坂道・階段
<<前のページへ 1|2|3|4 次のページへ>> 坂の中腹には「ねんねこ家」があります。

三浦坂
『御府内備考』は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政 3年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
三浦氏は美作 国(現・岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山郡は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治 5年(1872)から昭和 42年(1967)1月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。『東京府志科』は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島は三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。
別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。
平成 4年 11月 台東区教育委員会
□ 所在地:台東区谷中 1-4
弥生坂(鉄砲坂)
かつて、このあたり一帯は「向ヶ丘弥生町」といわれていた。元和年間(1615〜24)の頃から、御三家水戸藩の屋敷(元・東大農学部、地震研究所)であった。隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前田家の屋敷(現・東大)であった。
明治 2年(1869)これらの地は明治政府に公收されて大学用地となった。明治 5年(1872)には、この周辺に町屋が開かれ、向ヶ丘弥生町と名付けられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって「弥生坂」と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に政府鉄砲組の射撃場があったので「鉄砲坂」ともいわれた。
弥生とは、徳川斉昭候が、文政 11年(1828)3月に、このあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。
名にしおふ 春に向かふが岡なれば
世にたぐひなき花の影かな 斉昭
平成 11年 3月 文京区教育委員会

□ 所在地:弥生 1丁目と 2丁目の間

狸坂
この辺りは旧千駄木林町で、むかしは千駄木山と言って雑木林が多く、坂上一帯は俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上る坂なので、狸坂と名付けられた。
狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)が流れて田んぼが開け、日暮里の台地と対している。この日暮里に諏訪神社があり、8月 27日の祭礼が終わっても、どこからともなく「狸ばやし」が毎夜聞こえてきた。
土地の人達は、これを千駄木山の"「天狗ばやし」とか「馬鹿ばやし」といって、狸山に住む狸の仕業と言い伝えてきた、民話にちなむ面白い坂名である。
平成 16年 3月 文京区教育委員会
□ 所在地: 千駄木 3-12〜20の間

三段坂
『台東区史』はこの坂について「戦後、この清水町に新しい呼び名の坂が、9番地から21番地にかけて屋敷町の大通りに生まれた。段のついた坂なので三段坂と呼ばれている。過ぎ去った呼び名は郷愁をうったえ、新しい呼称は将来を祝福してやまない。三段坂とは誰がつけたかは知らないがいみじい名前ではないか。」と記している。戦後とは第二次世界大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名。
坂道は明治 20年(1887)版・地図になく、同 29年(1896)版・地図が描いている。したがって、明治二十年代に造られた坂道であろう。
昭和 59年 3月 台東区教育委員会
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坂下から見て左に折れながら坂は延びています。右側面上には上野動物園のバードハウスの辺りで、様々な鳥の声が聞こえてきます。

清水坂
坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し、昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。
平成 12年 8月 台東区教育委員会
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諏訪神社から下って、JR線下のトンネルをくぐり(駐輪場を兼ねています)、駅の反対側へと抜けられます。

地蔵坂
この坂はJR西日暮里駅の西脇へ屈折して下る坂である。坂名の由来は諏訪神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむという。
荒川区教育委員会
御隠殿坂
明治 41年(1908)刊『新撰東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路ををいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。
昭和 57年 12月 台東区教育委員会


芋坂
坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺前へ通じていた。鉄道路線でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付けられて、わずかにその名を残している。
坂名は伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が採れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。
芋坂も 団子も月の ゆかりかな 子規
平成 12年 3月 台東区教育委員会
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藪下通りの汐見坂。団子坂上、鴎外記念室から日医大病院下を通って根津裏門坂へ抜けられます。途中に屋敷森、解剖坂があります。

藪下通り
本郷台地の上を通る中山道(国道 17号線)と下の根津谷(ねづだに)の道(不忍通り)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から駒込方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道である。「藪下道(やぶしたみち)」とも呼ばれて親しまれている。
むかしは道幅も狭く、両側は笹藪で雪の日には、その重みで垂れ下がった笹に道をふさがれて歩けなかったという。この道は森鴎外の散歩道で、小説の中にも登場してくる。また、多くの文人がこの道を通って鴎外の観潮楼(かんちょうろう)を訪れた。
現在でも、ごく自然に開かれた道の面影を残している。団子坂上から上富士への区間は、いまは「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。
平成 7年 3月 文京区教育委員会
緑に溶け込んで見落としがちな「汐見坂」の碑。


江戸時代、坂下の宗林寺付近は蛍沢と呼ぶ、蛍の名所であった。坂名はそれにちなんだのであろう。『御府内備考』では「宗林寺の辺も螢沢といへり」と記し、七面坂方面の谷へ「下る処を中坂といふ。」と記している。中坂とは三崎坂と七面坂中間の坂なのでそう呼んだ。三年坂の別名もある。
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