坂道・階段
1|2|3|4 次のページへ>> JR鶯谷駅南口から上野寛永寺方面へ上る坂を「新坂(鶯坂)」と言います。

新坂
明治になって、新しく造られた坂である。それで「新坂」という。明治 11年(1878)内務省製作の『上野公園実測図』にある「鶯坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。鶯谷を通る坂だったので、「鶯坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。
台東区
坂は線路上を、根岸方面、言問通りへ下っていきます。

この階段を上がりきると上野・東照宮。私はこの階段でいつものようにひと休み。私より上には先客が。

この場所は比較的涼しいけれど、さすがに昼間は、老いた黒猫達はもっと涼しい場所へ移って不在です。若い貓だけですねえ。
ほら、休んでいる間にまた 1匹、若い猫がやって来ましたよ。
早朝、緩やかで長い

三崎坂
「三崎 」とうい地名の由来には諸説あるが、駒込・田端・谷中の三つの高台にちなむといわれる。
安永 2年(1773)の『江戸志』によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」といい、30年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。
団子坂
不忍通りから千駄木 2丁目と 3丁目をカーブしながら上る団子坂です。坂上は「大観音通り」の名の通り、白山方面へ進めば、光源寺・駒込大観音があります。

江戸川乱歩のデビュー作『D坂の殺人事件』のD坂は、この団子坂です。また最近では、"団子坂にある古道具屋"が主人公の歴史サスペンス・コミック『イリヤッド〜入矢堂見聞録〜 』(原作: 東周斎雅楽・画: 魚戸おさむ)で知られているかも知れません。
団子坂
潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。 「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂とと唱ふ云々」(御府内備考)
「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また『御府内備考』に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治 40年(1907)頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。
平成 10年 3月 文京区教育委員会
汐見小学校の北側を藪下通りに上る坂。というか階段です。

上りきると藪下通りにぶつかり、坂の正面に見える銀杏の木は本郷図書館鴎外記念室(観潮楼跡)です。
銀杏の木と、写真右が

大給坂
かつて坂上に大給豊後守の屋敷があったことから、大給坂と名付けられた。
大給氏は、戦国時代に三河国(愛知県)加茂郡大給を本拠とした豪族で、後に徳川家康に仕え、明和元年(1764)三河西尾に移封された一族である。
現在残っている大銀杏は、大給屋敷の内にあったものである。この辺りの高台を、千駄木山といい、近くに住んだ夏目漱石は次のように詠んでいる。
初冬や 竹きる山の なたの音
漱石
平成 3年 3月 文京区教育委員会
長く緩やかな三段坂の途中に大きなモミジの木があります。散り頃は、もうしばらく先ですが、道路に少しずつ落ち葉が増え始めました。

まるで赤いゴム風船ようにモミジを蓄えています。

谷中コミュニティセンター奥手(蛍坂に面した階段途中)には学童保育施設があります。その入り口と階段坂の境に小さな柿の木があります。

無縁坂と言えば森鴎外の『
『無縁坂』
母がまだ若い頃 僕の手をひいて
この坂を登るたび いつもため息をついた
ため息つけば それで済む
後ろだけは見ちゃだめと
作詞/作曲:さだまさし 唄:グレープ
その後の歌詞に「偲ぶ

坂上からみて、右の赤レンガ塀の上に旧岩崎邸庭園があります。


