観音・地蔵尊
1折り紙・曼荼羅・万華鏡...。

専念寺地蔵にお供えされた、お水と"くす玉"折り紙です。
六地蔵第二番
団子坂を上ってしばらく歩いた左手奥に見えるのが東都六地蔵第二番。ここにも戦災の跡がありました。

江戸時代に東都六地蔵の第二番として有名であった地蔵尊は、この奥の道端(もと専念寺境内。本堂は戦災で焼失)に露仏として安置されている。円頂立姿、宝珠と錫杖をもつ高さ 1.8メートルばかりの鋳造である。
東都六地蔵は空無上人が元禄の頃(1688〜1704)に建立したものである。建立の年代順で示すと、
第 1番 瑞泰寺(文京区向丘 2-36-1)
第 2番 専念寺(文京区千駄木 1-22-22)
第 3番 浄光寺(荒川区西日暮里 3-4-3)
第 4番 心行寺(府中市紅葉丘 2-32-14)
第 5番 福聚院(台東区上野公園 16-13)
第 6番 正智院(台東区浅草 2-31-3)
現存する東都六地蔵は、ここと浄光寺の二体を残すだけとなり、貴重なものである。
平成 7年 3月 文京区教育委員会

由来の記
昭和 20年(1945)3月 4日朝、アメリカ空軍 B-29によって、この地域の千駄木・谷中に多数の爆弾が投下され、大きな被害を受けました。死者 500人以上といわれています。
この地には、銭湯「鹿島湯」があり、石灰貯蔵庫を防空壕に入っていた赤ちゃんを含む 23人の方が犠牲になりました。
昭和 34年(1959)、この方々の冥福と戦争を二度と起こさぬことを誓い、近所の人々によって、この地蔵尊が建立され、「坂下地蔵尊」と命名されました。
平和地蔵尊を守り戦争体験を語り継ぐ懇談会

古い街並みが比較的多く残るこの地域について、『すぐ近くの東大が、爆撃の標的からはずされていたから、谷中界隈も爆撃から逃れた。』という話を聞きます。それが真実なのかはわかりませんが、まったく空襲の被害を受けなかった訳ではありませんでした。
■ 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」 80号
・特集/六十年めにやっと聞けた わが町の空襲
(2005年7月20日発行)
http://www.yanesen.net/backnumber/080/
夏の「ご利益」大セール!
四万六千日分の功徳を戴きに、夕刻早くより駒込大観音(光源寺)ほおずき千成市へ。

浄土宗 光源寺は大改築が随分長く続いていまして、現在も本堂は工事中です。今年はそんな中での、ほおずき千成市です。浅草寺ほおずき市(浅草)には、規模も歴史も及びませんが、露店も演し物の企画や進行も、お寺や地元の方々の運営による、アットホームな縁日です。

駒込大観音と言いますが光源寺も、隣接する駒込学園(中学・高校)も現・町名は向丘なんですよね。
■ 駒込大観音 ほおずき千成市(谷根千ねっと・情報トピックスより)
http://www.yanesen.net/topics/topic/2096/
大給坂を降りきり、不忍通りに出る手前の左手に小さな観音堂があります。

はじめ見つけた時は、その小ささにお稲荷様かと思いましたが、千駄木三丁目北町会ホームページには、このように紹介されています。
坂下観音
大正時代、井戸を掘っている時に偶然如意輪観音像が出土。近所の住人が自宅敷地内に奉っていたところ、地元の名士=大給氏が土地を提供し、近隣の人々が協力し堂宇を建て現在の地に安置されたものです。堂内にはこの 観音像出土を祝って作られたご詠歌が奉納されています。
ネットで調べていたら「近所の住人」とは四宮政治さんという方のお祖父さんのようです。
■ 千駄木三丁目北町会ホームページ
http://www.sensan-kita.org/
>> 町内会案内図 >> 坂下観音
http://www.sensan-kita.org/p14.htm
■ 四宮政治文化研究所
http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/
■ 日誌一月二日
http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/2006/01/post_adf6.html
みしま地蔵尊由来
太平洋戦争下の昭和20年3月4日午前8時40分頃、小雪降る中に、谷中地区は B29爆撃機の空襲を受け、死傷者約500人、全半壊家屋約200戸の被害を蒙った。
戦争も終わり昭和23年、当時の三崎町、初音町4丁目、真島町の有志により、三ヶ町の戦災者70余名の霊を永久に供養するために地蔵尊が建立された。
みしま地蔵尊とは三ヶ町の町名からそれぞれ一字をとったもので『三四真地蔵』、かなで読みやすくした。
平成 4年 11月 台東区教育委員会

谷中は「寺町ゆえに戦災を逃れ、古い町並みが残された」わけでもないのですね、、、。

