寛永寺 - 子院

1


06060408.jpg


虫塚(都指定旧跡)

 虫塚[むしづか]は、伊勢(現、三重県)長島藩主である増山雪斎の意志により、写生に使った虫類の霊を慰めるため、文政 4年(1821)に建てられたものである。
 増山雪斎は、宝暦 4年(1754)の生まれ。本名を正賢といい、雪斎はその号であるが、玉園・蕉亭・石顛道人・巣丘隠人など多くの別号がある。江戸の文人大田南畝や大坂の豪商木村兼葭道など、広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。自ら文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。中でも虫類写生図譜『虫豸帖』は、その精緻さと木草学にのっとった正確さにおいて、殊に有名である。文政 2年(1819)66歳で没した。
 虫塚は、当初、増山家の菩提寺、寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたため、現在の場所に移転した。
 勧善院は、四代将軍家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。
 碑は自然石で、正面は葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は詩仏菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設に関わったことが知られる。

 平成 8年 7月     台東区教育委員会

 寛永寺、根本中堂。
八重桜満開


根本中堂。

上野東叡山寛永寺

 天台宗の関東総本山。徳川歴代将軍の菩提所。寛永 2年(1625)天海僧正の創建です。江戸時代、上野の山全体が寛永寺の境内でした。創建当時は江戸城の鬼門を守る祈願所でしたが、後に芝の増上寺とともに将軍家の菩提所になりました。
 寺名は、「寛永」の年号をとって付けられ、山号の東叡山は、天台宗総本山比叡山延暦寺に倣い、東の叡山という意味です。
 江戸時代最盛期の寛永寺は、子院三十六ヶ院(今は十九ヶ院)と本坊、根本中堂、文殊楼(吉祥閣)などの豪華な建造物を誇り、これを総称して、寛永寺と言っていましたが、慶応 4年(1868)5月 15日の上野の戦争(彰義隊の戦争)により殆どの建物が焼失し、一部を残して新しく新しく上野公園となりました。 今の寛永寺は、明治 12年に天海僧正ゆかりの川越(埼玉県)の喜多院から本地堂(薬師堂)を子院であった大慈院の地に移築したもので、寛永 15年(1638)の建造物といわれています。


東叡山寛永寺

1




カテゴリ

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち0207_寛永寺-子院カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは0206_谷中霊園です。

次のカテゴリは0208_寺 - 谷中です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Powered by Movable Type 4.21-ja