名所・旧跡
1|2|3 次のページへ>>上野公園に、幕末の上野戦争に於いて戦死した彰義隊士を祀る墓があります。
その墓に備えられた石灯籠です。
通常、火袋に三光(月・星・太陽)の型が抜かれた石灯籠が多いのですが、この石灯籠の火袋には、鳥を型どり抜かれています。
『ツキヒーホシ・・・』と啼き声が聞こえる三光鳥[サンコウチョウ]でしょうか。

上野山 うごかず 去らで
啼く音 血をはく 五月雨のころ
『斃休録』 天野 八郎
実質、彰義隊の指揮を執ったとされる天野八郎の句です。
ホトトギスは『血を吐くまで鳴き続ける』と言われたそうですが、武士や漢の生き方をなぞらえているのでしょうか・・・。
下記リンクの記事を読みますと、『上野公園内の彰義隊資料室で見た女性の手紙』を解読されています。見せしめに放置された隊員の遺体を収納させてほしいと、勝海舟にあてて懇願する手紙だそうです。その手紙の結びに、天野八郎の句が使われています。
■ S-5 戊辰戦争-敗者のその後(さわらびYの歴史・民俗・考古探索ノート)
http://sawarabituusin.cocolog-nifty.com/notebook/2006/11/11_36d2.html
ホトトギスは、彰義隊を象徴する鳥なのかも知れません。
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勝 海舟
尾形 乾山 墓碑・乾山深省蹟
台東区上野桜木 1-14-11
尾形乾山は、琳派の創始者である画家・尾形光琳の弟である。寛文 3年(1663)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(1711~1735)、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。
寛保三年(1743)81歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政 6年(1823)、顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で、文化 12年(1815)に光琳百回忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政二年には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現・豊島区西巣鴨 4-8-25)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。
当寛永寺境内の二つの碑は、昭和 7年(1932)、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると現・善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鴬谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正 10年(1921)には公寛法親王との縁により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。
正保 4年(1647)に後水尾天皇の第 3皇子守澄法親王が入山し、明暦 1年(1655年)に「輪王寺宮」と号して以降、代々の輪王寺宮が寛永寺住職を勤めます。
解説板によると、尾形乾山は、後西天皇の第 6皇子公辨法親王[こうべんほっしんのう]輪王寺宮に従って、江戸に来ました。
輪王寺宮は、上野の森の鶯の啼き始めが遅く、訛りがある、と嘆き、尾形乾山に命じて京から美声で"はや鳴き"の鶯を 3,500羽取り寄せ、放鳥した、との言い伝えがあります。このため上野寛永寺を中心に、根岸〜谷中周辺の鶯は美しい声で啼き、江戸府内でも最初に啼き出す"初音の里"として評判になりました。
江戸時代、谷中から千駄木の辺りまで、上野の森から根岸辺りまでは、同じく「鶯谷」と呼ばれ親しまれました。
明治以降、谷中側には「初音」が町名に残り、根岸側は駅名に「鶯谷」が残りました。
碑は、「岡倉天心記念公園」「日本美術院」の院歌です。
岡倉天心が酒に酔い、詠んだ歌を横山大観が「院歌」としました。
碑文は見えにくいですが、すぐ近くの「谷中コミュニティセンター」には拓本のコピーが掲示されています。
谷中 鶯 初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい
気骨侠骨 開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい
録 天心先生 作 日本美術院之歌 大観
碑文は横山大観の筆によるもので、「
■ 日本美術院史 外伝 その1(日本美術院)
http://www.nihonbijutsuin.or.jp/colum/contents_furuta01.html
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岡倉天心記念公園にも梅がありますが、明治時代、この辺りは谷中初音町といいました。
旧 谷中初音町 4丁目
町名は、本町内に鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯谷の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
谷中初音町は、はじめ 1丁目から 3丁目として誕生した。明治 2年(1869)のことである。そして同 4年(1871)、江戸時代から六阿弥陀横町または切手町といわれた武家地が初音町 4丁目となり加わった。さらに同 24年(1891)、初音町 4丁目は谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併し、ここに初音町としての町域を確定した。
本町には、かつて日本近代美術の先覚者岡倉天心が住んでいた。明治 13年(1880)東京大学卒業後、文部省に勤めたが、同 22年(1889)、東京美術学校を開設するなどして日本近代美術の振興につとめた。その天心の旧居跡が現在の岡倉天心記念公園である。公園正面の六角堂には本区名誉区民・芸術院会員であった平櫛田中作の「岡倉天心坐像」が安置されている。
2005年に隣接した土地に集合住宅が建ち、幅が広くなった「お化け階段」。
下から上ると 40(死十)段なのに、上から降りると 39(三重苦)段になるからとか、石段に墓石が使われているとか、言われましたが、もとの暗くて細い階段ではなくなり、それほど話題にもならなくなりました。
『
おばけ階段(2006/4/27)』(都市徘徊blog)によりますと、それまであった私道が "二項道路"という扱いから、隣接する集合住宅を新築するにあたって現行の建築基準法により幅員を 4m以上確保しなければならない、との事で、「お化け階段」の南側は階段下(根津)から中途半端に階段が広がったのでした。
そして 2008年から 2009年にかけて、今度は階段の北側(弥生)に住宅が建設されました。今度は階段の北側に沿って最上段まで幅 4mに拡張されました。中央に残されたもとの「お化け階段」と、両脇が住宅建設とともに付け足された階段です。もとの階段が歪んでいるために平行ではありません。
つぎはぎだらけの「お化け階段」です。

日暮里駅南口から紅葉坂を上ると、谷中霊園入り口にありますのが、「谷中七福神」の毘沙門天が祀られていることでも知られています「護国山 尊重院 天王寺」。江戸時代には谷中霊園のほとんんどが天王寺の寺領でした。天王寺境内西端には、一般に「天王寺大仏」として親しまれている大仏が鎮座しています。

銅造釈迦如来坐像 (台東区有形文化財)
本像については、『武江年表 』元禄 3年(1690)の項に、「5月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄 3年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また同銘文中には「日遼 」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺 第 15世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して、天王寺 と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住職である。
昭和 8年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図絵 』(天保 7年〔1836〕刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治 7年(1874)の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和 8年(1933)6月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和 13年(1938)には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
なお、「丈六仏 」とは、釈迦の身長に因んで 一丈六尺(約 4.8m)の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺(約 2.4m)に作るのが普通である。
本像は、明治 41年刊『新撰東京名所図絵 』に「唐銅丈六釈迦 」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
平成 5年(1993)に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。
台東区谷中 7-14-8 天王寺
平成 8年 3月 台東区教育委員会

綺麗さっぱりしています。実は、2008年 6〜8月にかけて大がかりな修復工事が行われました。(撮影: 7/13)
元禄 3年(1690)に建立されて以降、(記録に残されているのは)昭和 8年(1933)に現在地へ移動の際に修復されただけだったようです。昭和以降、環境悪化に伴う酸性雨などで傷みが激しくなった本像を、約 2ヶ月かけて修復、洗浄されたのでした。
きょう(2007/7/30)は、幸田露伴の 60年目の命日でした。"居宅跡"ですから当時の住居はなく、現在は集合住宅が建てられています。ただ露伴ゆかりの

幸田露伴居宅跡
幸田露伴は、明治 24年 1月からほぼ二年間、この地(当時の下谷谷中天王寺 21番地)に住んでいた。
ここから墓地に沿った銀杏横丁を歩き、左を曲がると天王寺五重塔があった。五重塔は寛永 21年(1644)に感応寺(天王寺の前身)の五重塔として創建され、、明和 9年(1772)2月に焼失、寛政 3年(1791)棟梁八田清兵衛 らにより再建された。
露伴は当地の居宅より日々五重塔をながめ、明治 24年(1891)11月には清兵衛をモデルとした名作『五重塔』を発表した。
同 26年(1893)1月、京橋区円山町(現・中央区)へ転居したが、現在も傍らに植わるサンゴジュ(珊瑚樹)は、露伴が居住していた頃からあったという。
露伴は、慶応3年(1867)7月、下谷三枚橋横町(現・上野 4丁目)に生まれ、すぐれた文学作品や研究成果を多数発表するなど、日本文学史上に大きな足跡を残した。昭和 22年(1947)7月没、墓所は大田区池上本門寺にある。
平成 14年 3月 台東区教育委員会

□ 所在地: 谷中 7-18-25
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「幸田露伴居宅跡」を背に谷中霊園を眺めます。この先に「天王寺五重塔」は、ありました。

向丘の曹洞宗 海蔵寺に「都家かつ江之碑」があります。

都家かつ江は、数多くの映画やTVでも活躍した昭和を代表する偉大な芸人のひとりです。三味線を伴奏に"七・七・七・五"の調子で整われた洒落た句で、男女の艶を唄う
都家かつ江之人生讃
當寺ゆかりの芸人だった彼女は明治 42年浅草日本堤に生まれる。3歳、父(都家四郎)主催の演芸団で初舞台を踏む。後、父の知人の一座等で役者として舞台出演。18歳の時、役者 清川滝三郎と結婚。これを機に夫婦漫才を結成。芸名 都家福丸・香津代と改名。昭和 20年主人(福丸)死去。一人娘を 2代目福丸として親子漫才を 3年程行う。その後「一人トーキー」として芸名 都家かつ江と改め一人舞台でデビュー後、数多くの映画・テレビ・ラジオ等に出演、活躍し名声を博した。昭和 58年(1983)9月 29日没。行年 74歳、戒名 芸照院真徹妙薫大姉
此の碑の下には都家かつ江愛用の撥 が置かれている。
平成 10年 10月 31日
大智山 海蔵寺住職 久貝正孝 誌
昔、地図などを描かされると工場は決まって、てっぺんが三角定規を重ねて並べたような絵を描きませんでしたか?よみせ通りに昔からあります旭プロセス製版の建物は、本当に典型的な昔ながらの工場の姿をしています。

現在となっては貴重なかたちですね。
現在は駐車場となってしまった、サトウハチロー旧居跡です。築 70年にもなる旧居は、サトウハチロー没後に、およそ 2年をかけて修復された後に「サトウハチロー記念館」として開館されました。

サトウハチロー旧居跡
本名は佐藤八郎(1903〜1973)詩人・童謡作家。
小説家佐藤紅緑 の長男として、明治 36年(1903)市谷薬王寺前町に生まれた。大正 5年(1916)小日向台町小学校を卒業し、早稲田中学に入学した。この頃から詩を書き始め、16歳のとき西条八十に師事し、詩を学んだ。大正 10年(1921)『金の船』や『少年倶楽部』などに童謡を発表し、大正 15年(1926)に詩集『爪色の雨』を発刊、詩人として歩み始めた。
昭和 12年(1937)上野桜木町から向ヶ丘弥生町に移った。週一回の、詩の勉強会"木曜会"が開かれ『木曜手帳』が刊行されたのも、この地である。
昭和 52年(1977)自宅の一階を改装して記念館が開館され、原稿や愛用品が展示されたが、記念館は平成 8年(1996)岩手県北上市に移った。
庭の一隅に、童謡『ちいさい秋みつけた』に歌われた"はぜの木"があったが、平成 13年(2001)10月礫川 公園[春日 1-15]内に移植された。
平成 15年 3月 文京区教育委員会
□ 所在地:弥生 2-16
記念館を運営されていた房枝夫人が亡くなられた後、紆余曲折を経て、現在は岩手県北上市に移りました。
サトウハチローは作品である繊細で優しい詞のイメージが強いのですけれど、ご本人は風貌、人生ともに豪快な人でもあったようです。地域雑誌『谷中 根津 千駄木』45号の特集「サトウハチローが好き」のコピーが、とても印象が強いので引用させていただきます。
落第三回、転校八回、
勘当を言い渡されること十七回。
東京中の留置場は大概知っている。
おおらか、賑やか、駄法螺吹き
イタズラ、腕白、不良少年
気さく、大袈裟、新しもの好き
さびしがりやで惚れっぽい
大衆的でセンチメンタル 愛情に飢えるロマンチスト
サトーハチローの墓碑銘に
「ふたりでみると
すべてのものは着(ママ)しくみえる」
とある。
墓は雑司ヶ谷墓地にある。
『谷中 根津 千駄木』45号・特集「サトウハチローが好き」
より引用しました。




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