名所・旧跡
1|2 次のページへ>> 日暮里駅南口から紅葉坂を上ると、谷中霊園入り口にありますのが、「谷中七福神」の毘沙門天が祀られていることでも知られています「護国山 尊重院 天王寺」。江戸時代には谷中霊園のほとんんどが天王寺の寺領でした。天王寺境内西端には、一般に「天王寺大仏」として親しまれている大仏が鎮座しています。

銅造釈迦如来坐像 (台東区有形文化財)
本像については、『武江年表 』元禄 3年(1690)の項に、「5月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄 3年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また同銘文中には「日遼 」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺 第 15世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して、天王寺 と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住職である。
昭和 8年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図絵 』(天保 7年〔1836〕刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治 7年(1874)の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和 8年(1933)6月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和 13年(1938)には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
なお、「丈六仏 」とは、釈迦の身長に因んで 一丈六尺(約 4.8m)の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺(約 2.4m)に作るのが普通である。
本像は、明治 41年刊『新撰東京名所図絵 』に「唐銅丈六釈迦 」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
平成 5年(1993)に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。
台東区谷中 7-14-8 天王寺
平成 8年 3月 台東区教育委員会

綺麗さっぱりしています。実は、2008年 6〜8月にかけて大がかりな修復工事が行われました。(撮影: 7/13)
元禄 3年(1690)に建立されて以降、(記録に残されているのは)昭和 8年(1933)に現在地へ移動の際に修復されただけだったようです。昭和以降、環境悪化に伴う酸性雨などで傷みが激しくなった本像を、約 2ヶ月かけて修復、洗浄されたのでした。
きょう(2007/7/30)は、幸田露伴の 60年目の命日でした。"居宅跡"ですから当時の住居はなく、現在は集合住宅が建てられています。ただ露伴ゆかりの

幸田露伴居宅跡
幸田露伴は、明治 24年 1月からほぼ二年間、この地(当時の下谷谷中天王寺 21番地)に住んでいた。
ここから墓地に沿った銀杏横丁を歩き、左を曲がると天王寺五重塔があった。五重塔は寛永 21年(1644)に感応寺(天王寺の前身)の五重塔として創建され、、明和 9年(1772)2月に焼失、寛政 3年(1791)棟梁八田清兵衛 らにより再建された。
露伴は当地の居宅より日々五重塔をながめ、明治 24年(1891)11月には清兵衛をモデルとした名作『五重塔』を発表した。
同 26年(1893)1月、京橋区円山町(現・中央区)へ転居したが、現在も傍らに植わるサンゴジュ(珊瑚樹)は、露伴が居住していた頃からあったという。
露伴は、慶応3年(1867)7月、下谷三枚橋横町(現・上野 4丁目)に生まれ、すぐれた文学作品や研究成果を多数発表するなど、日本文学史上に大きな足跡を残した。昭和 22年(1947)7月没、墓所は大田区池上本門寺にある。
平成 14年 3月 台東区教育委員会

□ 所在地: 谷中 7-18-25
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「幸田露伴居宅跡」を背に谷中霊園を眺めます。この先に「天王寺五重塔」は、ありました。

向丘の曹洞宗 海蔵寺に「都家かつ江之碑」があります。

都家かつ江は、数多くの映画やTVでも活躍した昭和を代表する偉大な芸人のひとりです。三味線を伴奏に"七・七・七・五"の調子で整われた洒落た句で、男女の艶を唄う
都家かつ江之人生讃
當寺ゆかりの芸人だった彼女は明治 42年浅草日本堤に生まれる。3歳、父(都家四郎)主催の演芸団で初舞台を踏む。後、父の知人の一座等で役者として舞台出演。18歳の時、役者 清川滝三郎と結婚。これを機に夫婦漫才を結成。芸名 都家福丸・香津代と改名。昭和 20年主人(福丸)死去。一人娘を 2代目福丸として親子漫才を 3年程行う。その後「一人トーキー」として芸名 都家かつ江と改め一人舞台でデビュー後、数多くの映画・テレビ・ラジオ等に出演、活躍し名声を博した。昭和 58年(1983)9月 29日没。行年 74歳、戒名 芸照院真徹妙薫大姉
此の碑の下には都家かつ江愛用の撥 が置かれている。
平成 10年 10月 31日
大智山 海蔵寺住職 久貝正孝 誌
昔、地図などを描かされると工場は決まって、てっぺんが三角定規を重ねて並べたような絵を描きませんでしたか?よみせ通りに昔からあります旭プロセス製版の建物は、本当に典型的な昔ながらの工場の姿をしています。

現在となっては貴重なかたちですね。
現在は駐車場となってしまった、サトウハチロー旧居跡です。築 70年にもなる旧居は、サトウハチロー没後に、およそ 2年をかけて修復された後に「サトウハチロー記念館」として開館されました。

サトウハチロー旧居跡
本名は佐藤八郎(1903〜1973)詩人・童謡作家。
小説家佐藤紅緑 の長男として、明治 36年(1903)市谷薬王寺前町に生まれた。大正 5年(1916)小日向台町小学校を卒業し、早稲田中学に入学した。この頃から詩を書き始め、16歳のとき西条八十に師事し、詩を学んだ。大正 10年(1921)『金の船』や『少年倶楽部』などに童謡を発表し、大正 15年(1926)に詩集『爪色の雨』を発刊、詩人として歩み始めた。
昭和 12年(1937)上野桜木町から向ヶ丘弥生町に移った。週一回の、詩の勉強会"木曜会"が開かれ『木曜手帳』が刊行されたのも、この地である。
昭和 52年(1977)自宅の一階を改装して記念館が開館され、原稿や愛用品が展示されたが、記念館は平成 8年(1996)岩手県北上市に移った。
庭の一隅に、童謡『ちいさい秋みつけた』に歌われた"はぜの木"があったが、平成 13年(2001)10月礫川 公園[春日 1-15]内に移植された。
平成 15年 3月 文京区教育委員会
□ 所在地:弥生 2-16
記念館を運営されていた房枝夫人が亡くなられた後、紆余曲折を経て、現在は岩手県北上市に移りました。
サトウハチローは作品である繊細で優しい詞のイメージが強いのですけれど、ご本人は風貌、人生ともに豪快な人でもあったようです。地域雑誌『谷中 根津 千駄木』45号の特集「サトウハチローが好き」のコピーが、とても印象が強いので引用させていただきます。
落第三回、転校八回、
勘当を言い渡されること十七回。
東京中の留置場は大概知っている。
おおらか、賑やか、駄法螺吹き
イタズラ、腕白、不良少年
気さく、大袈裟、新しもの好き
さびしがりやで惚れっぽい
大衆的でセンチメンタル 愛情に飢えるロマンチスト
サトーハチローの墓碑銘に
「ふたりでみると
すべてのものは着(ママ)しくみえる」
とある。
墓は雑司ヶ谷墓地にある。
『谷中 根津 千駄木』45号・特集「サトウハチローが好き」
より引用しました。
太平洋戦争の直前に浅野侯爵が浅野邸跡地を東京大学に移譲しました。(ほぼ、全域に近い)弥生 2丁目の大地主でもありましたが、戦後、昭和 23年(1948)農地解放のさなかに浅野家も土地を開放し、土地は住民に譲り、道路や空き地は物納したそうです。(「谷中・根津・千駄木」53号より)浅野家が地主であった頃の「跡」が異人坂の、V字折り返し石柱に見られます。

国会議事堂のようなこの建造産津は、上野公園内、東京国立博物館の一角、黒田記念館の正面に位置する場所に、京成電鉄・京成本線の「博物館動物園駅」跡があります。

上野公園内にあります、東京国立博物館に屋外展示されています。外観だけでしたら、このように平日でも館外から見ることが出来ます。(土曜日なので、門が開かれており、館内からならば門をくぐり、近くから造りをじっくり鑑賞することができます。

開門日時: 土曜日・日曜日・国民の祝日
京成本線日暮里駅から京成上野駅の途中、上野桜木から地下(上野公園)へ潜るトンネルです。

トンネルには「
...(略)... 京成上野駅付近のトンネルは当時御料地であった上野公園の下を通過する事から御前会議にまでかけられたという話がある。
"京成電鉄"-出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2006/06現在)
と、ありますがこのことと関係があるのでしょうか、、、。京成電鉄に問い合わせたところ、以下の内容の、丁寧な御返事を頂きました。

