建物
1|2|3 次のページへ>> 街のあちらこちらからジャスミンの香りが漂ってきますが、こちらも強い芳香を放っていました。築五十年以上は経つでしょうか...。現在は空き家で、家の前の敷地をジャスミンで覆われていました。

弥生美術館(竹久夢二美術館)立原道造記念館の間に大きな更地と 三軒の家があります。立原道造記念館裏に隠れた一軒は随分以前から空き家で、あとの二軒は、私が記憶する限りでは、年末まで住人がいました。東大弥生門の正面にあるこの三軒、今日(4/1)通りかかると解体の表示を見つけました。3日から解体するらしいので、ちょっと写真を撮っておくことにしました。
正面の鉄骨の建物は除き、その裏の木造家屋です。暗闇坂からですので一階部分は見えません(隣の更地を多うシートが貼られているため)。

谷根千界隈の古い木造は、寺町であることが影響しているのでしょうか、「下見板張り」と呼ばれる塀が非常に多いです。こうした「縦板張り」に「切妻屋根」の壁部分がモルタル(もしくは漆喰)の"昭和らしい"木造建築は数少ないと思います。

そして少し見えている、この木造二階建ての奥、立原道造記念館裏の廃屋です。

追分一里塚跡と高崎屋
東京大学弥生地区、農正門の正面には本郷通り(岩槻街道)と旧白山通りがぶつかる三叉路で「本郷追分」と呼ばれています。その場所には江戸時代「追分一里塚」があり、「高松屋」は江戸時代より現在に至るまで酒店を営業されています。

追分一里塚跡
一里塚は江戸時代、日本橋を起点として街道筋に 1里(約 4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場所として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中頃まで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。
平成 7年 3月 文京区教育委員会
■ 区指定史跡

この周辺の埋蔵文化財調査から、「高崎屋」の銘が入った酒徳利が数多く発掘されていることからも、当時の繁昌振りが想像されます。
京浜急行電鉄の泉岳寺 - 品川区間にある「泉岳寺トンネル(南行)」です。トンネルの上に碑(扁額)が掲げられているのですが、ご覧の通り西面には高架線路、東面は JR線路に囲まれ、地上から確認出来る場所がありません。よって、JR山手線(もしくは京浜東北線)の車両から確認するか、京急本線を、泉岳寺駅から品川駅まで最後尾の車両に乗り、背面を見続けることになります。

扁額には、このように書かれていました。
開福招慶
昭和四十三年
晴雄書

昭和 43年(1968)に約 5年をかけたトンネルが完成し、6/21に、品川 - 泉岳寺(都営地下鉄線への乗り入れ)間が開通しました。"晴雄"とは、当時の京浜急行電鉄社長であった、佐藤晴雄氏だそうです。
水墨蔵
本駒込・天祖神社近くの古い屋敷の蔵です。

ちょっとね、壁が水墨画のよう。

「文京つつじまつり」で賑わう、不忍通りから新坂(S坂)への門前通りです。

かつて栄えた遊廓の賑わいを、貧しい想像力で思い描いてみるのですが・・・

現在の門前通りではなく、おそらく現在の不忍通りとほぼ並行に走る(つまり斜めに道路に面している根津神社の鳥居からまっすぐと根津駅付近へ延びるような、)と、通りがあったのでしょうか...。この界隈には江戸と明治の一時期、遊廓が建ち並び、大層賑わったそうです。
「杉本染物舗」の横に次のような解説板が設置されています。
根津遊廓の跡地
根津八重垣町(昔は門前町と言った)から根津神社まで遊廓があった。そして昔根津は不寝と書かれていたようだ。小石川本郷と谷中の中間の谷間で、天保十有余年この根津に娼妓 がいたことを記している。更に当時の江戸市中の風紀から見て一大改革が持たれ、俗に言う水野越前守の禁粛政治で根津遊廓も禁止した。明治維新となるやこの根津の遊廓復帰は声高く叫ばれ公然と開業された。ところが東大、一高が本郷向丘に開設されるに及び、再びこの根津遊廓廃止論は大きく起こった。そして遂に明治 20年(1887)12月限りで廃止。その殆どは洲崎に移り、また一部は吉原に移った。明治 15年(1882)当局の調査によると吉原(娼妓 1,019人)、根津(娼妓 688人)、品川(娼妓 588人)と記され、その盛況ぶりが偲ばれる。
昭和 62年 4月
文京歴史研究会 荒川忠親 浪越徳治郎
小林光二 田中行成
松浦信夫 石坂岩雄
田代喜一郎 森田一郎
高田栄一 菊見岩雄
(株)柏崎土建 中尾泰一
里見博康 北山茂
小平千里 杉本順子
地域雑誌『谷中 根津 千駄木』とともに、この地域の歴史を語る上で欠かせない貴重な史料『ふるさと千駄木』(著:野口福治)には、明治の根津遊廓の風景がもう少し詳細に書かれていました。
明治 3年(1870)3月には藍染川の支流、弥生坂下の流れに、立派な手すり付きの橋を新調し、あいぞめ橋と名付け、遊廓の表門とした。
なお、八重垣通りの中央に桜の木を植え、その樹間に雪洞 を立て、灯りを入れて、新吉原にならった。その規模と繁栄は急速に拡大し、明治 10年(1872)には八幡楼をはじめ、貸座敷の数 90軒、娼妓 574人、内外の芸者 33人、他に引手茶屋 22軒、飲食店 17軒となった。
このつつじまつりの風景より多くの店と客で夜中賑わっていたようです。この根津遊廓があった頃を偲ばせる(見られる方の想像力頼みですが...)遺構が、路地裏に辛うじて残っていました。
毎年、新たに巣立つツバメの姿を楽しみにしていた不忍通り沿いの某マンションの駐車場ですが、以前は終日開かれていたシャッターが今年は 4月から閉じたままです。(時々開いているのですが、以前のように"開けっ放し"ではないようです。防犯上のこともあるのかもしれなせん。)

改修工事かテナントの事情なのかはわかりません。巣の下が糞で汚れる苦情も住人の方から伺ったこともあります(「仕方がないよねぇ。」と仰っていました。)
鳥もまた、年月と環境の変化の中で新しい住み処を見つけなければならないのでしょう。
【追記: 5/21】
ツバメの飛来時期を勘違いして申し訳ありません!!
5月に入り飛来、例年通りシャッターは開け放され、巣作りを始めています。
トールペインティング 太安堂
古い看板・店舗と"トールペインティング"という一見ミスマッチな取り合わせが妙に惹きつけさせられます。

太安堂は不忍通り沿い(根津神社そば)、「根津のたいやき」「八重垣煎餅」の向かい付近にあります。トールペインティング教室と、こちらで制作された小物や家具が展示、販売もされています。
元が「太安堂」という、美術(調べきれませんでしたが画材店か画廊か...看板の文字が読めるほど頭が良くないもので。後日わかりましたら加筆修正します。)を扱う店舗を、トールペインティングのアトリエとして借り、通りがかりに興味を持たれた方々に教えられるうちに教室のようになっていったそうです。
かつてこの土地(駒込林町)に住んでいた大給近孝子爵の寄付により、大正 15年(1926)地元青年団のために建てられた文武道場です。

左脇にお稲荷さまと小さな建立碑が建っています。

大給家から現在は財務省の管理となり、町会が賃貸費を払い、会合などに使用しているようです。
参考:
■ 地域雑誌「谷中 根津 千駄木」28号(谷根千ねっと)
・「未完 みんなで作る林町事典」
http://www.yanesen.net/backnumber/028/
谷中コミュニティセンター奥手(蛍坂に面した階段途中)には学童保育施設があります。その入り口と階段坂の境に小さな柿の木があります。

