町の歴史

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 採り上げるのが大変、遅くなってしまいましたが、去る 2008年 8月 8日(金)、「向丘記」碑の移設・設置作業が行われました。
「向丘記」碑は、水戸藩主 徳川斉昭が建立し、弥生の地名の由来となる碑です。後に同地区より、新時代の土器が発掘されたことにより「弥生(式)土器」、ひいては「弥生時代」の由来ともなります。

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碑の設置箇所は、東京大学本郷キャンパス浅野地区・浅野南門から入り、情報基盤センター脇になります。
碑を設置する土台部分の工事は一週間前から製作が行われました。(オカヒロユキデザイン)
情報基盤センター

向丘記碑は、賢崇寺(港区元麻布)にて、石工職人(株式会社 小林石材工業 <http://www.azabujuban.or.jp/shop/etc/6109.html>)によって、一部埋もれていた碑文からコンクリート基礎部分の剥離・除去作業が行われた後、保管されていました。
移設2


クレーンによる設置作業も熟練の石工職人によって作業が進められました。
側面から見るとよくわかりますが「向丘記」碑は、約 12cm程の厚みしかない「寒水石」と呼ばれる多層の大理石で出来ています。
移設3


設置作業は慎重に進められました。

 2007年、東京大学は 130周年を迎えましたが、翌 2008年、東京大学医学部&附属病院は 150周年を迎えます。150周年記念事業の一環として2006年〜2007年、東大病院内通路で、過去の卒業アルバムから選んだ多くの写真パネルを展示しました。その中には大変珍しい写真が多くありましたが、その中でとても惹きつけられた一枚の写真がありました。
 この写真に惹きつけられたのは私だけでなく、東京大学広報センターの細谷さんも大いに惹きつけられていたようで、細谷さんは、数枚の写真パネルを東京大学医学部から借り受け、12月より広報センター(龍岡門脇)内で展示されました。おそらく 1月以降も展示されていると思いますので、パネルは数枚の構内風景の写真ですが、その中の一枚をより多くの方に見て頂きたい、と思います。

 一枚というのは昭和 3年(1928)冬の三四郎池の写真です。昭和 3年とは、関東大震災の復興を引きずり、第二次世界大戦への予兆が少しずつ芽吹き始める頃です。東大構内も内田祥三らが校舎の建設がまだ盛んであった頃でした。・・・
比較の意味で、まず約 80年経った 2007年 12月 31日の三四郎池です。
三四郎池


昭和 3年(1928)冬の三四郎池です。なんと三四郎池でスケートをしています。
三四郎池銀盤
注: 帝國大學新聞(昭和 3年 1月 16日 第236号)縮小版から、資料用にコピーしたものを更に加工して載せています。)

喜びの跡

 お正月來の寒さで、御殿下の池も例年の如く見事に氷が張りつめ休暇明けまでアマチュア、スケーターを喜ばせてゐたが去る十日來の暖氣で全部解氷し昨今は僅に残さいが岸に漂ってゐる。

 帝國大學新聞(昭和 3年 1月 16日 第236号)


上の画像は帝國大學新聞(昭和 3年 1月 16日 第236号)に掲載されたものですが、その春の卒業アルバムに同じ写真が使われたのでした。
パネル張りされた写真は複写とはいえ、上に引用させて頂いた画像よりも、鮮明で幻想的です。
CO2排出量増加による温室効果、ヒートアイランド現象など原因はいろいろあるのでしょうが、この写真を目にした後、再びこの東京で。本郷で。三四郎池が銀盤となる日が来ないか、と夢見てしまいました。


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東京大学広報センターは、12/28(金)~1/4(金)まで年末年始休館。
年始の開館は、1/7(月) 10:00からです。

 12月 2日、「集落研究会」による『弥生町から巣鴨町へ』と題する、文京区の遺跡を巡る見学会がありました。東京大学赤門からスタートし、弥生〜根津〜千駄木〜動坂〜本郷通り〜染井霊園を、遺跡や発掘に関わる旧跡を巡りながらの勉強会です。
いつもお世話になっている東京大学埋蔵文化財調査室の原祐一さんが、弥生・浅野地区の解説をされるということで、東京大学広報センターの細谷さんらとともに、午前中だけ参加させていただきました。
集落研究会


江戸時代(水戸藩邸)〜明治時代(警視局射的場、東京府用地、浅野侯爵邸)を中心に解説がありました。原さんは、江戸・明治時代の土地の利用から、「弥生土器」の“発掘出来得た場所”を推定しています。(農学部動物医療センター付近)


普段、上ることが出来ない、工学部 9号館(浅野地区)屋上からの眺望です。向こうに見える森が、かつて“忍岡[]”と呼ばれた上野の森。そしてこちら側が、忍岡の向こう、“向丘[むこうがおか]”です。古代には入江であり、江戸・明治時代には不忍池が見えたであろう丘の谷間(池之端〜根津界隈)はビルだらけですが、視点を広げると地形に大きな変化がないことがわかります。
忍岡眺望

 以前に文京区「弥生」の由来・発祥となった石碑について書きました。浅野地区は本来、江戸時代には旧水戸藩中屋敷から明治に射的場、浅野侯爵邸を経て昭和 17年(1942)東京大学本郷キャンパスの一部となりました。浅野家が庭園に、旧水戸藩時代の「向丘記」碑を残したために東京大学へ寄贈されました。
その石碑は現在も東京大学本郷キャンパス浅野地区にありますが、決して恵まれた環境にはありません。工学部 10号館脇にある液体窒素貯蔵タンクのそのまた陰に隠れて設置されています。
工学部10号館脇


「向丘記」碑の設置場所は始終日陰で、場所柄枯れ枝の集積場所となっていたりもします。
向丘碑
弥生・浅野地区を重点的に研究されている東京大学埋蔵文化調査室原祐一さんは現在ある「向丘記」碑の状態を憂慮され、2006〜2007年にかけて、日本石造文化学会の協力の下に数回にわたる現地調査が実施されました。

「文京つつじまつり」で賑わう、不忍通りから新坂(S坂)への門前通りです。
門前通り


 かつて栄えた遊廓の賑わいを、貧しい想像力で思い描いてみるのですが・・・
門前通り


 現在の門前通りではなく、おそらく現在の不忍通りとほぼ並行に走る(つまり斜めに道路に面している根津神社の鳥居からまっすぐと根津駅付近へ延びるような、)と、通りがあったのでしょうか...。この界隈には江戸と明治の一時期、遊廓が建ち並び、大層賑わったそうです。
杉本染物舗」の横に次のような解説板が設置されています。


根津遊廓の跡地

 根津八重垣町(昔は門前町と言った)から根津神社まで遊廓があった。そして昔根津は不寝と書かれていたようだ。小石川本郷と谷中の中間の谷間で、天保十有余年この根津に娼妓[しょうぎ]がいたことを記している。更に当時の江戸市中の風紀から見て一大改革が持たれ、俗に言う水野越前守の禁粛政治で根津遊廓も禁止した。明治維新となるやこの根津の遊廓復帰は声高く叫ばれ公然と開業された。ところが東大、一高が本郷向丘に開設されるに及び、再びこの根津遊廓廃止論は大きく起こった。そして遂に明治 20年(1887)12月限りで廃止。その殆どは洲崎に移り、また一部は吉原に移った。明治 15年(1882)当局の調査によると吉原(娼妓 1,019人)、根津(娼妓 688人)、品川(娼妓 588人)と記され、その盛況ぶりが偲ばれる。

 昭和 62年 4月
 文京歴史研究会  荒川忠親  浪越徳治郎
          小林光二  田中行成
          松浦信夫  石坂岩雄
          田代喜一郎 森田一郎
          高田栄一  菊見岩雄
       (株)柏崎土建  中尾泰一
          里見博康  北山茂
          小平千里  杉本順子


 地域雑誌『谷中 根津 千駄木』とともに、この地域の歴史を語る上で欠かせない貴重な史料『ふるさと千駄木』(著:野口福治)には、明治の根津遊廓の風景がもう少し詳細に書かれていました。

 明治 3年(1870)3月には藍染川の支流、弥生坂下の流れに、立派な手すり付きの橋を新調し、あいぞめ橋と名付け、遊廓の表門とした。
 なお、八重垣通りの中央に桜の木を植え、その樹間に雪洞[ぼんぼり]を立て、灯りを入れて、新吉原にならった。その規模と繁栄は急速に拡大し、明治 10年(1872)には八幡楼をはじめ、貸座敷の数 90軒、娼妓 574人、内外の芸者 33人、他に引手茶屋 22軒、飲食店 17軒となった。


 このつつじまつりの風景より多くの店と客で夜中賑わっていたようです。この根津遊廓があった頃を偲ばせる(見られる方の想像力頼みですが...)遺構が、路地裏に辛うじて残っていました。

 団子坂を上りきった右、石垣の上にある空き地ですが、以前は宮城県東京宿舎がありました。土地の一部(写真左)は汐見地域センターに。そして残りの空き地は今年 (2006/6)より、東洋大学外国人宿舎(完成予定:2008/8)の建設工事が着工される予定です。


 宮城県東京宿舎跡地では、汐見地域センター建設前に発掘調査が行われ、様々な時代の埋蔵文化財が発掘されています。かつてこの地には御遷座前の根津神社がありました。


 さらに遡り、縄文・弥生時代の遺物や遺構が発掘されました。これら発掘物の一部は、隣にある汐見地域センター 1F展示コーナーで見ることが出来ます。

 浅野地区の由来は明治から昭和にかけて、浅野侯爵邸の敷地であったところから付いています。東京大学埋蔵文化財調査室サイト内で、原祐一さんが書かれた「東京大学・浅野地区の歴史」と、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」53号と 67号を参考に、明治時代の浅野地区、弥生 2丁目を年表で振り返ってみます。


参考リンク:
東京大学埋蔵文化財調査室
>> 東京大学・浅野地区の歴史
http://www.aru.u-tokyo.ac.jp/asano_panel.htm

谷根千ねっと
>> 「谷中 根津 千駄木」既刊一覧
● 53号 特集 「地主は浅野のお殿様 向ヶ岡弥生町読本」
http://www.yanesen.net/backnumber/053/

● 67号 特集「秋色モンブラン 谷根千の甘ーい生活第二弾 - ケーキ屋さん案内」
http://www.yanesen.net/backnumber/067/
・弥生町の発掘調査から「遺跡発掘で知る[いにしえ]の暮らし」
・「藝州浅野家弥生町での日々」十七代当主、浅野長愛さんにうかがう

【追記】
● 84号 特集「上州と谷根千」
http://www.yanesen.net/backnumber/084/
・向丘弥生町の歴史

 東京大学・浅野地区を歩きながら弥生を振り返ってみました。弥生は、明治以降「向ヶ丘弥生」と地名が付けられました。
 現在の弥生は、1丁目が東京大学弥生地区、2丁目が東京大学浅野地区と、一般住宅地ということになります。大雑把な言い方をすると、不忍通りと本郷通りの間、弥生坂(言問い通り)を中央に挟んで弥生は南北に広がっています。東京大学浅野地区を含む、弥生 1〜2丁目付近は、江戸時代まで徳川御三家のひとつ、水戸家駒込邸がありました。現在の不忍通りを挟んで東の上野山周辺の台地一体は忍岡[しのぶがおか]と呼ばれていましたので、根津の谷(不忍通り)を挟んだ、駒込側の台地一帯は、向ヶ丘と呼ばれていたようです。

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