弥生・向丘

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"谷根千"じゃなくて"屋根専"! 夏以外は、やっぱり車の上は気持ちがいいのでしょうねえ。
車の屋根


 あ、ゴメン!起こしちゃいましたぁ〜・・・。
屋根の上の2匹

 路地と言うよりは閑静な住宅街にあります「下宿 豊島館」。
住宅街


 とりたてて古い建物ではなく、見た目は比較的新しい木造アパートです。豊島館に関する歴史や由来などはわからないのですが、何とも響きがいいですね。宛先に書いてみたい名前です。
豊島館看板

 [ひさし]に横たわって、気持ちのいい時期というのは意外に少ないと思います。
路地


廂で昼寝

 24歳で夭折した立原道造(1914〜1939)記念館。暗闇坂沿い、東京大学本郷キャンパス弥生門の向かい側です。
立原道造記念館


立原道造(1914.7.30〜1939.3.29)
 東京生まれの詩人、立原道造は、詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめています。また、立原は、建築家でもありました。東京大学在学中、3年連続して「辰野賞」を受賞し、卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」を構想して壮大なリゾート計画を示し、「風信子ハウス」に象徴される小住宅設計にも意欲を燃やしました。


 暮 春 嘆 息     --立原道造君を憶ふて--


人が 詩人として生涯ををはるためには

君のやうに聡明に 清純に

純潔に生きなければならなかつた

さうして君のやうに また

早く死ななければ!

     三好達治


 立原の魅力は、多くの文学者や建築家たちによって今日もなお語り継がれてきていま
すが、24歳8か月という夭折の生涯を惜しんだ三好達治は、上記のような追悼詩を寄
せました。私どもは、現代文化に少なからぬ影響を与えた才能と資質とを普遍であると
確信し、立原が旧制一高以来の青春を過ごした向ヶ岡弥生の地に記念館を設立し、新し
い世紀に向けて永続的に顕彰していく所存です。

 1997年3月29日 立原道造記念館 館長 堀多恵子/理事長 鹿野琢見


■ 立原道造記念館
http://www.tachihara.jp/


 東京聖テモテ教会の正門横にさくらんぼが実っていました。
さくらんぼ


聖テモテ教会のさくらんぼ


■ 東京聖テモテ教会
http://www.nskk.org/tokyo/church/timothy/


東京聖テモテ教会

 爬虫研究の第一人者である、高田榮一先生が代表を務める「高田爬虫類研究所 / 高田動物生態研究所」。
カメレオン


 動物舎でしょうか、道沿いの窓ガラスはすべて金網が取り付けられています。
爬虫類研究所

 夏目漱石旧居跡に建つ橘桜会館(日本医科大学同窓会館)の塀にある猫像。
塀伝いに歩く
  

吾輩が「吾輩は猫である」のモデルになった"猫"をモチーフに作られた、猫である。                  
猫の像

 日本医科大病院そば。現在は記念碑と猫のオブジェがあるだけですが...。
記念碑

夏目漱石旧居跡

 夏目漱石、本名・金之助。慶応 3年〜大正 5年(1867〜1916)。小説家。この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治 36年(1903)3月〜39年(1906)12月、現在の西片 1丁目に移るまで、3年 10ヶ月住んだ家があった。(家主は東大同期の斉藤阿具氏)
 当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆を執った。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、"猫の家"と呼ばれ親しまれた。
 この地で、『倫敦塔(ろんどんとう)』『坊っちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名を顕した。漱石文学発祥の地である。
 漱石が住む 13年程前の明治 23年 10月から 1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外は、ここから団子坂下の観潮楼へ移っていった。
 二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。
 平成 7年 3月     文京区教育委員会

指定: 区指定史跡
所在地: 文京区向丘 2-20-7


橘桜会館(日本医科大学同窓会館)館内 1Fロビーに関連資料が展示されています。
橘桜会館


異人坂

 坂上の地に、明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。ここに住む外国人は、この坂を通り、不忍池や上野公園を散策した。当時は、外国人が珍しかったことも手伝って、誰いうとなく、外国人が上り下りした坂なので、異人坂と呼ぶようになった。
 外国人の中には、有名なベルツ(ドイツ人)がいた。明治9年(1876)ベルツは東京医学校の教師として来日し、日本の医学の発展に貢献した。ベルツは不忍池を愛し、日本の自然を愛した。
 異人坂を下りきった東側に、明治25年(1892)高林レンズ工場が建てられた。今の 2丁目 13番付近の地である。その経営者は朝倉松五郎で日本のレンズ工業の生みの親である。

 平成 9年 3月     文京区教育委員会

所在地: 文京区弥生2-13


060313.jpg

 隣に集合住宅が新築されて明るくなった「お化け階段」または「ゆうれい階段」。
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