弥生・向丘
<<前のページへ 1|2|3|4|5|6|7 次のページへ>> 現在は駐車場となってしまった、サトウハチロー旧居跡です。築 70年にもなる旧居は、サトウハチロー没後に、およそ 2年をかけて修復された後に「サトウハチロー記念館」として開館されました。

サトウハチロー旧居跡
本名は佐藤八郎(1903〜1973)詩人・童謡作家。
小説家佐藤紅緑 の長男として、明治 36年(1903)市谷薬王寺前町に生まれた。大正 5年(1916)小日向台町小学校を卒業し、早稲田中学に入学した。この頃から詩を書き始め、16歳のとき西条八十に師事し、詩を学んだ。大正 10年(1921)『金の船』や『少年倶楽部』などに童謡を発表し、大正 15年(1926)に詩集『爪色の雨』を発刊、詩人として歩み始めた。
昭和 12年(1937)上野桜木町から向ヶ丘弥生町に移った。週一回の、詩の勉強会"木曜会"が開かれ『木曜手帳』が刊行されたのも、この地である。
昭和 52年(1977)自宅の一階を改装して記念館が開館され、原稿や愛用品が展示されたが、記念館は平成 8年(1996)岩手県北上市に移った。
庭の一隅に、童謡『ちいさい秋みつけた』に歌われた"はぜの木"があったが、平成 13年(2001)10月礫川 公園[春日 1-15]内に移植された。
平成 15年 3月 文京区教育委員会
□ 所在地:弥生 2-16
記念館を運営されていた房枝夫人が亡くなられた後、紆余曲折を経て、現在は岩手県北上市に移りました。
サトウハチローは作品である繊細で優しい詞のイメージが強いのですけれど、ご本人は風貌、人生ともに豪快な人でもあったようです。地域雑誌『谷中 根津 千駄木』45号の特集「サトウハチローが好き」のコピーが、とても印象が強いので引用させていただきます。
落第三回、転校八回、
勘当を言い渡されること十七回。
東京中の留置場は大概知っている。
おおらか、賑やか、駄法螺吹き
イタズラ、腕白、不良少年
気さく、大袈裟、新しもの好き
さびしがりやで惚れっぽい
大衆的でセンチメンタル 愛情に飢えるロマンチスト
サトーハチローの墓碑銘に
「ふたりでみると
すべてのものは着(ママ)しくみえる」
とある。
墓は雑司ヶ谷墓地にある。
『谷中 根津 千駄木』45号・特集「サトウハチローが好き」
より引用しました。
ほおずき屋台、出発進行〜!!

ほおずき千成り市の宣伝を兼ねて向丘から千駄木〜谷中を、浴衣美人 3名引き連れ練り歩く「ほおずき屋台」です。

屋根の上を列車がゆくよ ♪ 見晴らし列車がゆくよ♪
弥生の空を列車がゆくよ ♪ 見晴らし列車がゆくよ♪

青空も雲も突っ切って ♪ 見晴らし列車はゆくよ♪
浅野の空を見上げてごらん ♪ 見晴らし列車がゆくよ♪

プラットホームは、木の電柱 ♪

見晴らし列車はどこまでも ♪ 見晴らし列車はどこへでも ♪
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参考リンク: アーティスト淺井裕介さんのブログ「今日は今日」より〜
■ 電線の電車(今日は今日)
http://d.hatena.ne.jp/asaiyusuke/searchdiary?word=%2a%5b%C5%C5%C0%FE%A4%CE%C5%C5%BC%D6%5d
弥生坂(鉄砲坂)
かつて、このあたり一帯は「向ヶ丘弥生町」といわれていた。元和年間(1615〜24)の頃から、御三家水戸藩の屋敷(元・東大農学部、地震研究所)であった。隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前田家の屋敷(現・東大)であった。
明治 2年(1869)これらの地は明治政府に公收されて大学用地となった。明治 5年(1872)には、この周辺に町屋が開かれ、向ヶ丘弥生町と名付けられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって「弥生坂」と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に政府鉄砲組の射撃場があったので「鉄砲坂」ともいわれた。
弥生とは、徳川斉昭候が、文政 11年(1828)3月に、このあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。
名にしおふ 春に向かふが岡なれば
世にたぐひなき花の影かな 斉昭
平成 11年 3月 文京区教育委員会

□ 所在地:弥生 1丁目と 2丁目の間
太平洋戦争の直前に浅野侯爵が浅野邸跡地を東京大学に移譲しました。(ほぼ、全域に近い)弥生 2丁目の大地主でもありましたが、戦後、昭和 23年(1948)農地解放のさなかに浅野家も土地を開放し、土地は住民に譲り、道路や空き地は物納したそうです。(「谷中・根津・千駄木」53号より)浅野家が地主であった頃の「跡」が異人坂の、V字折り返し石柱に見られます。

浅野侯爵こと、
浅野地区の由来は明治から昭和にかけて、浅野侯爵邸の敷地であったところから付いています。東京大学埋蔵文化財調査室サイト内で、原祐一さんが書かれた「東京大学・浅野地区の歴史」と、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」53号と 67号を参考に、明治時代の浅野地区、弥生 2丁目を年表で振り返ってみます。
参考リンク:
■ 東京大学埋蔵文化財調査室
>> 東京大学・浅野地区の歴史
http://www.aru.u-tokyo.ac.jp/asano_panel.htm
■ 谷根千ねっと
>> 「谷中 根津 千駄木」既刊一覧
● 53号 特集 「地主は浅野のお殿様 向ヶ岡弥生町読本」
http://www.yanesen.net/backnumber/053/
● 67号 特集「秋色モンブラン 谷根千の甘ーい生活第二弾 - ケーキ屋さん案内」
http://www.yanesen.net/backnumber/067/
・弥生町の発掘調査から「遺跡発掘で知る
・「藝州浅野家弥生町での日々」十七代当主、浅野長愛さんにうかがう
【追記】
● 84号 特集「上州と谷根千」
http://www.yanesen.net/backnumber/084/
・向丘弥生町の歴史
平成 15年(2003)12月に、ホール、研究施設を備えた武田先端知ビルが竣工しました。

建てられた場所は弥生地区の西側、

■ 財団法人 武田計測先端知財団
http://www.takeda-foundation.jp/index.html
平成 13年(2001)武田先端知ビル建設に先立ち、行われた発掘調査でいくつもの発見がありました。
広く知られているとおり、弥生式土器発見にともない名付けられた「弥生土器」、「弥生時代」の名称は、ここ文京区弥生の地名に由来します。東大浅野地区の一角、弥生坂沿には地元有志の方々によって建てられた碑があります。

建碑のことば
弥生式土器は、ここ向ヶ丘弥生町(現・弥生 2丁目)内の数カ所から初めて出土発見され、町名を冠して「弥生式」と名付けられました。
遠いむかし、人々はこの辺りに住みつき、日本文化の曙を告げたのです。弥生式土器、向ヶ丘遺跡の発見によって、弥生時代という重要な文化期の存在が知られました。私たちは、こうした歴史の壮大で匂やかなロマンを憶いふるさとわが町の誇りを語り継ぎ、出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この記念碑を建てました。
昭和 39年(1964)行政措置により、この町は弥生 2丁目と変わりましたが、町会名は歴史的な名を継承しております。
昭和 61年(1986)夏 7月吉日 向ヶ丘弥生町会有志
高橋石材 刻
「・・・ゆかりの地」となっているのは、第一発見場所がハッキリしていないためです。それは、当初この地に多く出土していた縄文土器の一種とされていて、弥生土器として命名、区別されたことが遅かったことや、この地域の開発が急速に進んだために急速に変化し、発掘場所のスケッチと弥生土器発見時の資料公表時との風景が大きく変わってしまったことなどが挙げられています。


