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08031307.jpg 昨年、根津「宮の湯」がが廃業しましたが、今朝、数km南へ歩いた上野松坂屋の先にあります、朝湯で有名な、上野「燕湯」の前を通りかかったところ、シャッターが下ろされていました。


燕湯


どうやら、一ヶ月以上前から営業を休まれているようです。シャッターには貼り紙がされています。
燕湯・貼り紙

やむをえず
暫く
 閉鎖致します。

廃業では
 ありません。
  燕湯浴主


理由はわかりませんが、その貼り紙の文章から湧き上がるのは、勇気なのか。湯気なのか。・・・何かしらの決意が感じ取られました。


【追記: 3/25】
燕湯は 3/20より営業再開しました。

 ここ数日、秋葉原近くで仕事はあったので、千駄木を早めに出て谷中〜東京都台東区上野公園〜湯島〜秋葉原と一時間ほどかけてぶらぶらと歩きながら通いました。お茶の水・神保町方面と違い、秋葉原へは平坦なコースで続くので近く感じます。

08021401.jpg JR秋葉原駅から少し離れた高架下をくぐる際に、薄汚れた道路標識を見つけまたが、その存在に気付くと何となく違和感を感じて近付いて撮影してしまいました。「止まれ」ではなく、ぎこちのないカタカナで「トマレ」とあります。高架下の道路の両面ともが工事中です。工事用にガムテープ文字で臨時に作られたものならいざ知らず、ずいぶんと剥げてはいますが路面にきちんと塗装されていました。路面も写真を見てわかるように、「トマレ」の文字左部分は掘り起こしたのか、埋めたのか、暫定的にアスファルトが敷かれています。「トマレ」をわざと残したようにも見えます。

私が奇妙に感じた一番の理由は、両方向一車線であるにもかかわらず「トマレ」の文字が右車線にあるからなのでした。左車線には本来の「止まれ」が書かれています。
高架下

 京浜急行電鉄の泉岳寺 - 品川区間にある「泉岳寺トンネル(南行)」です。トンネルの上に碑(扁額)が掲げられているのですが、ご覧の通り西面には高架線路、東面は JR線路に囲まれ、地上から確認出来る場所がありません。よって、JR山手線(もしくは京浜東北線)の車両から確認するか、京急本線を、泉岳寺駅から品川駅まで最後尾の車両に乗り、背面を見続けることになります。
泉岳寺トンネル


 扁額には、このように書かれていました。

開福招慶

 昭和四十三年
 晴雄書

開福招慶


 昭和 43年(1968)に約 5年をかけたトンネルが完成し、6/21に、品川 - 泉岳寺(都営地下鉄線への乗り入れ)間が開通しました。"晴雄"とは、当時の京浜急行電鉄社長であった、佐藤晴雄氏だそうです。

* このエントリーは谷根千から少し離れます。

 1年以上前に上野桜木にあります京成電鉄のトンネル「東臺門」について書きました。
07090200.jpg


 月に何度か山手線を利用して大崎・五反田方面へ行くのですが、以前より気になっていた、車窓から見える風景がありました。かなり恥ずかしかったのですが、今回(2007/8/31)、デジカメ持参で山手線最後尾に乗り、その風景を写真に撮りました(当然ブレました...orz)。
 それは JR山手線、田町〜品川間の品川駅近く、京急線路上に見ることが出来ます。品川駅に近付く辺りで、京急線が地下から地上へ出るトンネルが目に飛び込んできます。

 以前、「ホエールウォッチング(2)」で人形町のクジラ像について書いたところ、後に作者のひとりである松橋博さんから頂いたコメントから、実は谷中「art gallery TEN[てん]」のオーナーである kaoruさんのご主人であることが後になって判りました。結果オーライでしたが谷根千と繋がって良かったなあ、というオチがついたのでした。
クジラ像1


 そのクジラ像の作家である彫刻家・中田浩嗣さんが残暑まだまだ厳しい 9月に「art gallery TEN[てん]」で作品展を開きます。

 そこで人形町の"クジラ"以外を改めて紹介します。日本橋小学校からすぐ傍の交差点脇に、このクジラ像はあるのですが、像の両脇には海面をイメージされた石盤の彫刻が設置されています。
 石盤の上には、まるで水を湛えたか、のような静謐で涼しげな波紋を描いた彫刻作品が置かれています。
水の石盤

「守田寶丹[ほうたん]」(守田治兵衛商店)は池端仲町通りにあります。創業者・初代守田治兵衛は、摂津国(現大阪府)より、延宝 8年(1680)に江戸へ出て「貞松堂」を創業。東京における最古の薬舗です。
守田寶丹


 日本で、安政 5年(1858)から断続的にコレラが流行り、文久 2年(1862)頃から 3度目のコレラが全国で流行りだしました。同 3年(1863)には 江戸で大流行したそうです。
 文久 2年(1862)、理学および医学を伝えるためオランダより長崎へ来日します。経緯は不明ですが(「寶丹」処方に書かれた歴史では"ある動機に依り"とあります。)ボードウィン博士の処方箋を得た九代目・守田治兵衛はこれを工夫し薬効を試した後、ボードウィン(ボードワン)からヒントを得たので「寶丹[ほうたん]」と名付けて発売しました。明治 3年には治官許第1号公認薬として許可を受け、救急の常備薬として大いに当たりました。明治 10年(1877)西南戦争から日清、日露戦争、青島戦に至るまで軍旅必携薬として重用されました。


※ 他にボードウィン博士の処方箋を元に作られた薬では『太田胃散』があります。

 今朝の永田町・国会議事堂。ほぼ2年前(2003年9月3日)より、折れたままの中央塔尖塔の避雷針。直さないのか直せないのか。ある意味、現在の政治の象徴。
050810_nagata.jpg


夏草や、魑魅魍魎は盆帰り。

 谷根千から離れますが、"上野公園の鯨"繋がりということで紹介します。

 人形町の街角に設置されたクジラ像。
人形町の鯨

 鯨と海と人形町 (作: 松橋博  中田浩嗣)
 あやつり人形のバネは今でも鯨ヒゲが使われています。特に人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の命とも言える精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨ヒゲでなければ出せないそうです。
 ここ人形町一帯は寛永十年(1633)頃から、江戸歌舞伎の「市村座」「中村座」、人形浄瑠璃の糸あやつり人形結城座、手あやつり人形の薩摩座などの小屋が集まり、江戸町民の芝居見物が盛んでした。
そして、それらの人形を作る人形師や雛人形、手遊物などを商う店がたくさん立ち並んでいたところから昭和8年、正式に人形町という地名になりました。

 (2002年7月)
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