東大散歩
<<前のページへ 5|6|7|8|9|10|11|12|13|14 次のページへ>> 東大生であったことはないのですが(^_^;)、'70年代は五月祭に、'80年代後半の一時期にアルバイトで、よく東大・本郷キャンパスを歩いていました。このホームページを立ち上げてから再び、根津〜弥生〜池之端から、散歩の延長でよく訪れるようになったのですが、新しい建物やショップが増えました。以前からあった場所でも、歴史や謂われまではよく知りませんでした。
去る7月 4日に、2004年から開始されている「東京大学キャンパスツアー」に参加しました。私が参加した少し以前に TV番組に取り上げられた、とかで休日の日程を中心に参加者が増えたそうです。参加申し込みは下記の東京大学キャンパスツアーホームページ内にて、ツアー日程、申し込みフォームで受け付けています。

■ 東京大学ホームページ
http://www.u-tokyo.ac.jp/
■ 東京大学キャンパスツアーホームページ
http://nw.nc.u-tokyo.ac.jp/campustour/
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屋根の上を列車がゆくよ ♪ 見晴らし列車がゆくよ♪
弥生の空を列車がゆくよ ♪ 見晴らし列車がゆくよ♪

青空も雲も突っ切って ♪ 見晴らし列車はゆくよ♪
浅野の空を見上げてごらん ♪ 見晴らし列車がゆくよ♪

プラットホームは、木の電柱 ♪

見晴らし列車はどこまでも ♪ 見晴らし列車はどこへでも ♪
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参考リンク: アーティスト淺井裕介さんのブログ「今日は今日」より〜
■ 電線の電車(今日は今日)
http://d.hatena.ne.jp/asaiyusuke/searchdiary?word=%2a%5b%C5%C5%C0%FE%A4%CE%C5%C5%BC%D6%5d
浅野侯爵こと、
浅野地区の由来は明治から昭和にかけて、浅野侯爵邸の敷地であったところから付いています。東京大学埋蔵文化財調査室サイト内で、原祐一さんが書かれた「東京大学・浅野地区の歴史」と、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」53号と 67号を参考に、明治時代の浅野地区、弥生 2丁目を年表で振り返ってみます。
参考リンク:
■ 東京大学埋蔵文化財調査室
>> 東京大学・浅野地区の歴史
http://www.aru.u-tokyo.ac.jp/asano_panel.htm
■ 谷根千ねっと
>> 「谷中 根津 千駄木」既刊一覧
● 53号 特集 「地主は浅野のお殿様 向ヶ岡弥生町読本」
http://www.yanesen.net/backnumber/053/
● 67号 特集「秋色モンブラン 谷根千の甘ーい生活第二弾 - ケーキ屋さん案内」
http://www.yanesen.net/backnumber/067/
・弥生町の発掘調査から「遺跡発掘で知る
・「藝州浅野家弥生町での日々」十七代当主、浅野長愛さんにうかがう
【追記】
● 84号 特集「上州と谷根千」
http://www.yanesen.net/backnumber/084/
・向丘弥生町の歴史
平成 15年(2003)12月に、ホール、研究施設を備えた武田先端知ビルが竣工しました。

建てられた場所は弥生地区の西側、

■ 財団法人 武田計測先端知財団
http://www.takeda-foundation.jp/index.html
平成 13年(2001)武田先端知ビル建設に先立ち、行われた発掘調査でいくつもの発見がありました。
広く知られているとおり、弥生式土器発見にともない名付けられた「弥生土器」、「弥生時代」の名称は、ここ文京区弥生の地名に由来します。東大浅野地区の一角、弥生坂沿には地元有志の方々によって建てられた碑があります。

建碑のことば
弥生式土器は、ここ向ヶ丘弥生町(現・弥生 2丁目)内の数カ所から初めて出土発見され、町名を冠して「弥生式」と名付けられました。
遠いむかし、人々はこの辺りに住みつき、日本文化の曙を告げたのです。弥生式土器、向ヶ丘遺跡の発見によって、弥生時代という重要な文化期の存在が知られました。私たちは、こうした歴史の壮大で匂やかなロマンを憶いふるさとわが町の誇りを語り継ぎ、出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この記念碑を建てました。
昭和 39年(1964)行政措置により、この町は弥生 2丁目と変わりましたが、町会名は歴史的な名を継承しております。
昭和 61年(1986)夏 7月吉日 向ヶ丘弥生町会有志
高橋石材 刻
「・・・ゆかりの地」となっているのは、第一発見場所がハッキリしていないためです。それは、当初この地に多く出土していた縄文土器の一種とされていて、弥生土器として命名、区別されたことが遅かったことや、この地域の開発が急速に進んだために急速に変化し、発掘場所のスケッチと弥生土器発見時の資料公表時との風景が大きく変わってしまったことなどが挙げられています。
東京大学・浅野地区を歩きながら弥生を振り返ってみました。弥生は、明治以降「向ヶ丘弥生」と地名が付けられました。
現在の弥生は、1丁目が東京大学弥生地区、2丁目が東京大学浅野地区と、一般住宅地ということになります。大雑把な言い方をすると、不忍通りと本郷通りの間、弥生坂(言問い通り)を中央に挟んで弥生は南北に広がっています。東京大学浅野地区を含む、弥生 1〜2丁目付近は、江戸時代まで徳川御三家のひとつ、水戸家駒込邸がありました。現在の不忍通りを挟んで東の上野山周辺の台地一体は
東京大学・本郷キャンパス内の、工学部(本郷地区)と農学部(弥生地区)に架かる歩道橋です。

橋下は弥生坂上、言問通り。両キャンパスの高い石塀に挟まれていることから、東大生らはこの場所を、通称「ドーバー海峡」と名付けています。


三四郎池(育徳園)
加賀藩主前田氏が、現在の赤門から池にかけての一帯の地を将軍家から賜ったのは、大阪の没後のこと。園池を大築造したのは寛永 15年(1638)、その性、豪宕で風雅を好んだという当主前田利常のときである。かれの死後、綱紀がさらに補修して、当時江戸諸侯邸の庭園中第一と称せられた。
育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数寄をきわめたものだといわれている。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の正式名称は「育徳園心字池」なのだが、夏目漱石の小説「三四郎」以来、三四郎池の名で親しまれている。
東大本郷銀杏並木 '05
安田講堂へ続く銀杏並木。

