東大散歩
<<前のページへ 5|6|7|8|9|10|11|12|13|14 次のページへ>> 東京大学総合図書館です。東京大学全体の蔵書数は約 863万 5千冊ありますが、うち総合図書館には約 121万冊(いずれも 2006/3現在)あるそうです。2004年頃までは国会図書館よりも蔵書が多かったそうです。
関東大震災で一度焼失後、ロックフェラー財団の寄付を受け、内田祥三工学部教授により、鉄筋コンクリートの耐震設計で昭和 3年(1928)再建されました。何かがモデルになっているのですが判るでしょうか?

正面からしか撮れなくて判り辛いかもしれませんが、書棚に並ぶ図書の背表紙を模しています。3Fに図書館の模型が飾ってありますが(ロックフェラー氏にも同じ模型を寄贈)、本当に書棚そっくりです。
また、正面玄関のファサードには新海竹蔵(1930・第 17回院展出品作)のレリーフが埋め込まれています。これ以外も館内は階段の大理石や柱や天井のレリーフ、数多くの貴重な美術品などが展示されおり、見飽きることがありませんでした。キャンパスツアーのコースで入ることが出来ましたが、通常の一般利用は許可されていません。(身分証明を提示し、あらかじめ利用目的を明らかにすれば閲覧室など一部の施設利用が可能です。)
外から窓越しに洋雑誌閲覧室に飾られた美術品の一部を鑑賞?することが可能です。
もと東方文化学院に設置され、現在は東洋文化研究所の正面玄関に設置されている一対の獅子像です。

東方文化学院は元々、1900年に清国で起こった義和団事件の賠償金で建てられたそうです(たてもの応援団)。獅子像自体は昭和 7年(1932)「研究資料として購入」したものだそうですが 1932年といえば、満洲国建国の年でもあり、日本が大陸で力を持ち始めた頃です。当時の日本と清国の関係を鑑みつつ、この辺り購入の経緯などは、興味があるところです。
赤門と並ぶ、東京大学を象徴する建造物です。当時の東京大学卒業式では成績優秀者に天皇陛下から銀時計を拝受されましたが、天皇陛下をお迎えするのに相応しい施設が無く、また講堂と呼べるものも無かったことから安田財閥の初代総帥・安田善次郎氏の寄付により、大正 14年(1925)建設されました。

左背後に見える建造物は理学部一号館。安田講堂の景観をなるべく壊さないように、西面はガラス張りで設計されました。
12階建て相当(高さ39.7メートル)ですが正面に見える玄関は実は三階部分で、正面広場の下には円形状の生協・中央食堂(名物、赤門ラーメン)があります。黒ずんでいる箇所と、はげかかった箇所がありますが、これは学生紛争さなかの昭和43年(1968)、東大安田講堂事件で警察と学生らが対立した際に投げつけられた火炎瓶の跡だそうです。

地震研究所門前に設置されているオブジェ「地震計と日月」ですが、コメントを頂いたきくちさんのサイト「地震研究所に在った碑(分離派建築博物館)」にありますように、以前あった下半分の「日月」と思われる部分が現在は無くなり石垣にすげ替わり、上部分「地震計」と思われるオブジェだけとなっています。今一度確認にいきますと、石垣上(オブジェ左脇)に銅板プレートで施された蓋状のものが見えました。

ちょっと近づいて覗いてみると、プレートには土砂がこびりついて読みにくいのですが、ティッシュで根気よく土砂を拭ってみますと次のような文が書かれていました。・・・
右の赤い建物は平成 13年度に造られた経済学研究科棟。左の白い建物が平成 16年度に造られた医学部教育研究棟。文学部や農学部辺りの学生が皮肉混じりにつけたのでしょうか(いや、勝手に決めつけてはいけませんね...実際は誰が言い出したのかは知りませんが)、いつしか他学部の学生等から付けられたあだ名が「白い巨塔(医学部)」と「赤い巨塔(経済学部)」。

東京大学大学院医学系研究科附属疾患生命工学センター・動物資源研究領域脇にヤギの飼育小屋があります。主に人工心臓の実験などの研究用に飼育されているヤギです。ヤギの心臓は人間の心臓と、ほぼ同じくらい大きさなのだそうです。

身近に共棲する動物が減り、ついつい忘れがちですが、食用であれ、研究用であれ、様々な動物の生命と引き替えに、私たちは生かされているのだなあ、と改めて気づかされます。

■ 東京大学
http://www.u-tokyo.ac.jp/
>> 東京大学 医学部
http://www.m.u-tokyo.ac.jp/
東京大学広報センター
東京大学龍岡門の脇に東京大学広報センターがあります。東京大学に入学を希望する受験生、キャンパス見学に訪れた人たち、地域の方々など学内外を問わず誰でも利用が出来、東京大学についての案内や問い合わせに対応してくれ、様々な資料の閲覧ができたり、広報誌の配布などを行っている施設です。

■ 東京大学広報センター
開館時間: 10:00 - 16:30
開館日: 月曜日〜金曜日(祝日を除く)
場所:
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この建物は岸田日出刀(工学部・建築学科)により大正 15年(1926)に建てられた、東京帝国大学医学部附属医院の急病者受付所を改装したものです。平成 15年(2003)東京都選定歴史的建造物に選定されました。

この幾何学的な建築ですが、「地震計と日月」で、きくち(分離派建築博物館)さんからのコメントで、初めて知ったのですが「分離派建築」と分類されているようです。を頂き、1920年代建造物を中心に語られる分離派建築博物館ホームページを知りました。頂いたコメントにありますように「幾何学構成主義風の建物」ということです。大正時代頃の建造物、興味深いです。
■ 分離派建築博物館
http://www.sainet.or.jp/~junkk/
地震研究所の門前に設置されています。どの辺が"地震計"で、"日月"なのでしょうか、、、。そもそも"日月"って何でしょう?

地震計と日月
大正 14年(1925)11月 14日に地震研究所設立の管制が施行され、安田講堂裏に建物がつくられることになった。昭和 2年(1927)3月に着工し、翌 3年(1928)3月に竣工した。建物は地下二階付きの鉄骨鉄筋コンクリート構造二階建てで、建築学科教授内田祥三先生が設計されたものであった。大地震が襲来しても建物内で観測や研究が出来るようにと、当時の標準設計震度の二倍の計算で設計された。正面玄関の壁面には日月の凹みの模様があり、また、玄関に近い西壁面には地震計を象った石飾りがあった。これらはやはり建築学科の岸田日出刀先生の手になったものである。地震研究所が昭和 38年(1963)から 45年(1670)にかけて現在の場所に順次移転した後、安田講堂裏の建物は他部局が使用していたが、理学部の増築計画により昭和 56年(1981)11月取り壊されることになった。地震研究所発足から四十有余年、黎明期における地震学研究の輝かしい業績を生み出した旧地震研究所の建物を永く記念すべく、岸田先生の手になる石飾りの地震計と日月を切り取り組み合わせてここに建立する。
昭和 58年 11月 地震研究所

赤門(旧加賀藩屋敷御朱殿門)
赤門は焼失に際して再建を許されない慣習があるのだそうです。つまり、この赤門、震災も戦災も免れ(戦争時は直接の被災は免れたものの、近隣の空襲による延焼の危険がありました。その際に有志の方々が必死に水を運び、かけては防火に努めたそうです)、幾時代を乗り越えたきた訳で、本郷キャンパス内で最も古い建造物となりました。
赤門
文政 10年(1827)加賀藩主前田齊泰に嫁いだ 11代将軍徳川家齊の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御朱門殿であり、重要文化財に指定されています。

当時の慣習として、将軍家からお后を迎える際には朱塗りの門を建ててお迎えしたのだそうです。なぜ朱色なのかは諸説あり、お后(女性)をお迎えするからだ、とも朱=守にかけているのだ、とも言われているそうです。

