東大散歩
<<前のページへ 4|5|6|7|8|9|10|11|12|13 次のページへ>>チャールズ・ウェストの帽子
私ネェ、「チャールズ・ウェスト」言イマス。アイルランドカラ機械工学教エニ来マシタ。工学部 1号館前の広場にジョサイア・コンドル君ト年中立ッテマース。季節ハ巡リ幾歳月。今年モネマタ秋ニナッテ夜ナンカは結構冷エ込ンデキマシタヨ...。コレデモネ背ガネ、3メートル近クアルンデスヨ。高イデショ〜?トコロガ、デス!!
誰ェ〜〜〜〜?! 私ノ頭ノ上二帽子ヲ被ラセタノ誰ナノ〜〜〜〜!?

誰ナノデスカ?ソシテ何故デスカ?カラスノ仕業デスカ?学生ノ行為デスカ?ソレハ、プレゼントデスカ?優シサデスカ?イタズラデスカ?ソレトモ、何カノ、パフォーマンスデスカ?? ドウカ私ニ、帽子ノ意味ヲ教エテクダサーイ!
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■ 東京都選定歴史的建造物
内田祥三第 14代総長の設計で昭和 13年に建立されました。彼が設計・指導した、いわゆる「内田ゴシック」と呼ばれる本郷キャンパス内の多くの建造物の中にあって、この七徳堂はその特性から様式を異にし、純日本式「御殿造り」の武道場です。

東京大学と言えば「赤門」なのでしょうが、正真正銘こちらが、東京大学正門です。正門のまっすぐ先はメインストリームである銀杏並木と安田講堂です。

□ 登録有形文化財
明治 45年(1912)竣工。"東京大学の校風や意匠に大きく関わり方向を示した"、浜尾新 第 3代総長の創意によって、伊藤忠太が設計しました。上部中央は太平洋上、東天の雲間から上る旭日(朝日)と怒濤の波しぶきがモチーフで、青年(学生)の未来に向ける意気溌溂として雄大な気概をイメージして造られています。

東京大学弥生地区(農学部)の正門です。木材部や金具が老朽したものを平成 15年(2003)に約 3ヶ月の改修工事を経て、昭和 12年(1937)建設当時の姿を取り戻しました。

改修直後の写真が農学資料館(農正門を入ってすぐ右にあります。)に飾られていますが、白木が瑞々しく目映く見えました。風合いが出てきたというのか、排気ガスや風雨のせいで早くもくすんできたというのか、現在はやや木材部の色は濃くなっています。
農正門
農正門は、1935年に農学部が駒場から第一高等学校跡に移転した後、1937年に創建された。現在の門は 2003年に木曽のヒノキ材を用いて復元された。
以前にも書いたように、向ヶ丘弥生(現・弥生 1、2丁目)を語るときに切っても切り離せないのが、東京大学埋蔵文化財調査室の研究成果です。
弥生土器を含む弥生時代と水戸藩中屋敷があった頃の江戸時代。そして射的場や浅野侯爵邸があった頃の明治以降。これらの研究成果の殆どが東京大学キャンパス内の開発に伴う埋蔵文化財調査室の活動(発掘調査と文書調査)によるものです。これら研究成果の一端を専門家以外の私達が知ることが出来るのは、「谷中 根津 千駄木」編集部による取材や、同誌へ(寄稿を含め)協力されている、原祐一さんを始めとする埋蔵文化財調査室の報告によるものです。
池之端門近く、小高い医学部附属病院看護職員宿舎脇の茂みの中にひっそりと「相良知安先生記念碑」が建っています。

しかし明治新政府は、薩摩藩を後ろ盾に戊辰の役に従事した英国医師、ウイリアム・ウィリス(1837 - 1894)の活躍もあり、明治元年(1868)には既に英国医学の導入を決定していました。ところが、オランダ人医学者の反発や資金面(給与や設備費)から頓挫してしまいます。
明治2年(1869)蘭方医との調整役も兼ねて、相良は「医学校取調所御用掛」の役職に就きます。この地位を生かし、政府要人(旧土佐藩主・山内容堂ら)を向こうにまわしてドイツ医学の採用を激しく説きました。結果、政府は相良知安の主張を聞き入れ、ドイツ医学採用が決定されたのです。
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この後、相良知安は直ぐにドイツ政府へドイツ医師の派遣を要請しますが、ドイツ(プロシア)はフランスとの戦争で、ドイツ医師の来日が 3年近く遅れることになります。その間に医学校の学生らが騒ぎ出したため、相良知安の下で仕事をしていた石黒忠悳(後に軍医)は、大阪に再来日し教鞭をふるっていたボードウィン博士を頼り、医学校での講義を依頼します。ボードウィン(ボードワン)博士も、英国医師を退職させドイツ医学を採用しておきながら、その"繋ぎ"として講義を依頼してくる、かつての教え子の対応は気分のいいものではなかった、と思われます。しかしながら結局、明治 3年(1870)彼が帰国する直前の 2ヶ月を、医学校(東校)に於いて講義することを承諾しました。
また一方では、遡ること明治元年(1868)に横浜にあった軍事病院を合併し、「医学校兼病院」となっていた医学校(東校)は、それまであった下谷藤堂邸が手狭になり、荒れ果てたままの上野寛永寺(予定地)に、総合的な医学校&病院を建設し移転する計画が進行していました。(この時期にボードウィン博士は、石黒忠悳に「上野の山」を案内されることになる訳です。)
かつては東京大学医学部&附属病院の象徴であり別称でもあった「鉄門」は、医学部&附属病院関連の団体やサークルの俗称(もしくは愛称)として受け継がれ続けました。医学部同窓会は「鉄門倶楽部」であり、医学部のサークルには「鉄門○○部」といったように決まって"鉄門"が使われています。
2006年 6月、東京大学医学部及び附属病院の創立 150周年記念事業の一環として、無縁坂から龍岡門へ至る途中に「鉄門」が再建されました。

鉄門
東京大学医学部と附属病院の創立は安政 5年(1858)、神田お玉ヶ池の川路聖謨 の屋敷地に開設された種痘所にさかのぼる。種痘所は類焼により同年、下谷和泉橋通りに移転した。種痘所の門塀は厚い板を鉄板で囲い、鉄板の間を頭の丸い鋲釘で打ち付け真っ黒に塗ってあったので、江戸の人々は種痘所を「鉄門」と呼んでいた。種痘所は西洋医学所〜医学所〜医学校〜大学東校〜東校〜東京医学校と改称され、明治 10年(1877)に東京大学医学部となった。
東京医学校は明治 9年(1876)に本郷に移転した。本館は時計台のそびえる洋館で、現在の附属病院外来棟玄関の辺りに建てられた。正門はその向かい、現在の南研究棟(通称・赤レンガ)の位置(本地点より西に約 30メートル)に設置された。移転当初は種痘所の門扉も使用されたが、やがて格子模様の鉄製扉に代えられた。
当時、医学部正門は本郷キャンパスの正門であった。明治 17年(1884)に法・文学部が、翌年理学部が神田一ツ橋から移転してきたことにより、共通の公式門として本郷通り側に正門が設けられ、以後、医学部正門は鉄門と呼ばれるようになった。しかしながら、大正期に鉄門前の民有地が構内に取り込まれたため鉄門は撤去された。
東京大学医学部の創立 150周年を記念し、鉄門をゆかりのある無縁坂上に再建した。末永く多くの人々に愛されることを願うものである。
東京大学医学部・医学部附属病院
不思議な石灯籠と横には灯籠跡らしき石。ここだけ何か荒れていますけれど、造成中か何かでしょうか?と、言ってもず〜っと以前よりこんな感じで気にはなっていました。

撮影後に知ったのですが、加賀藩邸の時代に不義を働いた奥女中をヘビを使って折檻し、この場所で刑死された、その女中を弔うために建てられた灯籠だと言われているそうです。無闇に塚をいじると祟られる、というので、お祓いをされた教授もいたそうですが、実際に昔から大きく移動されていないところをみると、その教授ばかりが言い伝えを信じていたわけでもなさそうです。今でも選定作業をする造園業の方はお祓いを受けてからこの周辺の作業をしているそうです。
うわぁ〜!! そんな話を知っていたら、ズカズカと石灯籠に近づいて写真なんか撮らなかったのにぃ...
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