千駄木

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 2006年 3月に開館した「虫の詩人の館」。
昆虫が生理的に受け付けない人には勧めませんが、そうでなければ、是非一度、足を延ばして見て頂きたい、、、ことに「虫 = 気持ちが悪い」という固定概念が植え付けられていない子供たちに見て欲しい、と思います。昆虫標本から見える、色彩や造形の美しさ。昆虫飼育の観察を通して知る、生命の神秘や知恵。楽しくて、ちょっと深く考えさせられます。子供たちは勿論、大人が見ても楽しいと思います。私が行ったときも嬉々として昆虫を見ている方がいて(みな中高年。理科の先生でしょうか?)、昆虫に詳しくない私は、オオムラサキのさなぎや水槽の中にいるはずの水棲昆虫が見つけられず、ついついその方に居場所を教えてもらったりしました。あんなに大きなクワガタを見たのも初めてでした。
虫の詩人の館


 しかし何故、千駄木にファーブル昆虫館なのだろう? と不思議に思って訪ねると、元々は館長である奥本大三郎(仏文学者・作家)氏の自宅だったそうです。そして「虫の詩人の館」は、NPO(特定非営利活動法人)日本アンリ・ファーブル会が運営しているため、館内員は皆さん、ボランティア参加の人たちなのだそうです。それ故か、まだ館内の展示はそれほど多くなく、昆虫の数も、展示も完成しているとは言い難いものでした。(しかし、それでも面白いんです!)ですから、開館日も今はまだ多くありません。入館は無料です(もし、少しでも「楽しい!」と思えたなら入り口にある「ワンコイン寄付」に、ご協力を)。
 今後は、子供たちの体験学習や文京区生涯教育センターへの協力など、昆虫やフランス文化を通じた、様々な活動を行っていくようです。


 館正面の壁には昆虫のオブジェが施されています。
正面玄関

 坂下観音の奥から物音がするので、そっと脇から覗いてみると、、、
路地猫


野良猫が 1匹?・・・

 狸坂の途中、脇駐車場にて。
狸坂風景


 昼寝の邪魔すんニャ!・・・
起きていた猫

狸坂


狸坂

 この辺りは旧千駄木林町で、むかしは千駄木山と言って雑木林が多く、坂上一帯は俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上る坂なので、狸坂と名付けられた。
 狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)が流れて田んぼが開け、日暮里の台地と対している。この日暮里に諏訪神社があり、8月 27日の祭礼が終わっても、どこからともなく「狸ばやし」が毎夜聞こえてきた。
 土地の人達は、これを千駄木山の"「天狗ばやし」とか「馬鹿ばやし」といって、狸山に住む狸の仕業と言い伝えてきた、民話にちなむ面白い坂名である。

 平成 16年 3月     文京区教育委員会

□ 所在地: 千駄木 3-12〜20の間

 旧・町名の名残、「林町ガレージ」。写真右手が銀行通り(実際に銀行があったわけではなく、明治末期に銀行の頭取が多く住まい、坂上の見晴らしの良さからか千駄木の中では高級住宅が多い地域です)。道沿いには団子坂へ向かって、「高村光太郎(と智恵子)旧居跡」〜「宮本百合子ゆかりの地」〜「旧安田邸」〜「千駄木の郷(特別養護老人ホーム)」〜「汐見地域活動センター」(〜団子坂を挟んで「鴎外記念室」)と、住宅や各種施設などに混じって点々と建ち並んでいます。写真手前、銀行通りを道坂方向へ進むと、千駄木小学校の先に「虫の詩人の館」があります。左の道は狸坂から不忍通りへ下る道。途中には「半床庵」があります。
林町ガレージ


旧駒込林町(昭和 40年までの町名)
 雑木林の千駄木山のうちで、千駄木御林(おはやし)と称した地である。上野寛永寺創建の後、この林地を同寺の寺領とし、将軍家霊廟の材木を供給した。
 延享 3年(1746)開墾して畑となりその後、宅地を設けて町屋となった。御林跡と称えて、下駒込村に属していたが、明治 2年(1869)分かれて駒込林町と改めた。
同 24年(1891)元駒込村のうち、団子坂、上笹原を併合した。
 同 44年(1911)には千駄木をとり駒込林町と改称した。町名は武蔵野の面影を残す雑木林から命名された。

 文京区

 こちらは旧跡案内のプレートがあるのみで、当時の面影を偲ばせるものは「跡形」も残っていません。
高村光太郎旧居跡


高村光太郎旧居跡

 彫刻家であり、詩人・歌人でもあった高村光太郎(1833〜1956)は、彫刻家高村光雲の長男として台東区下谷に生まれ、10歳の時にここからすぐ近く(現・千駄木 5-20-6)に移り、そこで育った。
 東京美術学校(現・東京芸大)彫刻家を卒業して欧米に留学、ロダンに傾倒する。詩人としては在学中「新詩社」に加わり、「明星」にに寄稿し、「パンの会」にも参加した。
 明治 45年(1912)に住居を父の家からこの地に移し、自分で設計した木造(外観は黒塗り)の風変わりなアトリエが完成した。以後、ここで数多くの彫刻、詩などの作品が生まれた。大正 3年(1914)長沼智恵子と結婚、昭和 13年(1938)死別後はひとりで暮らした。
 昭和 20年(1945)4月の戦災で住居は焼失し、岩手県花巻に疎開した。昭和 27年(1952)中野区桃園町の中西利雄のアトリエに仮寓。昭和 31年(1956)4月、73歳で没した。墓地は豊島区駒込の染井霊園。
 平成 7年 3月     文京区教育委員会

□ 所在地: 千駄木 5-22-8

宮本百合子ゆかりの地


宮本百合子ゆかりの地

 旧姓中条ユリ(1899〜1951)は明治 23年(1899)小石川原町(現、千石 2丁目)で生まれた。父は建築家で、札幌農学校の設計のため札幌に赴任した。そのため 3歳までその地で過ごし、後に上京し、一家はこの奥の地である旧駒込林町 21番に住んだ。
 駒込小学校、誠之小学校、お茶の水女学校から、日本女子大(英文予科)に進んだ。女子大 1年の時、毎年行っていた父方の郷里である郡山市郊外の農村を舞台にした小説『貧しき人々の群』を書き、天才少女と謳われた。女子大は一学期で退学し、作家生活に入った。
 大正 7年(1918)アメリカに留学し、留学中結婚したが、帰国後離婚した。その経緯を描いた『伸子』は代表作となった。昭和 2年(1927)ソ連に旅し、帰国後、日本プロレタリア作家同盟に加入した。昭和 7年(1932)に再婚し、昭和 12年(1937)中条ユリから宮本百合子に姓名を変えた。戦後、『播州平野』など多くの小説、評論、随筆を発表し、昭和 26年(1951)実家である千駄木のこの地で没した。
 このあずき色の門柱は実家、中条家の入り口の名残である。

 平成 13年 3月     文京区教育委員会

□ 所在地: 千駄木 5-20、21


 大給坂を降りきり、不忍通りに出る手前の左手に小さな観音堂があります。
坂下観音


 はじめ見つけた時は、その小ささにお稲荷様かと思いましたが、千駄木三丁目北町会ホームページには、このように紹介されています。

坂下観音
 大正時代、井戸を掘っている時に偶然如意輪観音像が出土。近所の住人が自宅敷地内に奉っていたところ、地元の名士=大給氏が土地を提供し、近隣の人々が協力し堂宇を建て現在の地に安置されたものです。堂内にはこの 観音像出土を祝って作られたご詠歌が奉納されています。


 ネットで調べていたら「近所の住人」とは四宮政治さんという方のお祖父さんのようです。


■ 千駄木三丁目北町会ホームページ
http://www.sensan-kita.org/
>> 町内会案内図 >> 坂下観音
http://www.sensan-kita.org/p14.htm

四宮政治文化研究所
http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/
■ 日誌一月二日
http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/2006/01/post_adf6.html


 藪下通りから見た「文京区立本郷図書館鴎外記念室」
藪下通りから

所在地: 千駄木 1-23-4

「文京区立本郷図書館鴎外記念室」リニューアルオープンしました。
鴎外記念室


 資料展示室は以前と変わらず、それほど広くはありません。写真・遺品・原稿・書簡・日記などの他に、映像資料と「観潮楼」を復元したミニチュア模型が展示されています。中庭は展示プレートなど取り付けられ、整備されました。少ないですが、ポストカードなど記念品も販売されています。今後は講演会や講座も随時開催されるようです。

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